cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

文体の舵をとれ 〈練習問題⑦〉視点(POV)(ノクチル)問一

四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

 

問一:①

 ささやかながらしっかりした音響のステージはやたらと照明が眩しかった。なんとか2曲めが終わってまばらに響く拍手は空虚で、それでもアイドルがたかだか数ヶ月でなんとか様にした演奏にしてはお釣りが必要かもしれないと円香は思う。雛菜、ドラム走りすぎ。小糸は特殊な人前での演奏に完全に萎縮してるし、透は――自由に演奏し過ぎで誰ともあってない。

 女子刑務所の慰問ライブ。以前にテレビの企画でバンド演奏に取り組んで、曲がりなりにも弾けるようになったんだから活かせる仕事を、というのがプロデューサーの建前。それで取ってきた仕事がこれだったのにはあらゆるセンスを疑ったが、まあいまさらだ。

 マイクスタンドを片手で持ったまま、一歩前にいた透が円香たちのほうを振り返った。「いいね、ちゃんと聴いてくれてるし、みんな。思ったより。」「えっ、う、うん……!」「あは~、そうかもですね~?」刑務官に囲まれて無表情に聞いてる観客に透が好感触を感じてるのはよくわからないけど。たしかに、みんなが円香たちをみていた。

 じゃあ、といって前を向いた透が足でリズムを取りはじめる。透のギターがひとりアルペジオを奏でて、三小節目で小糸のキーボードが、雛菜のドラムが、円香のベースが一気に合流する。タイミングはばっちりだった。いつもベースを聴くように言ってるのに透のギターで始まるときだけ雛菜のテンポがジャストなのは癪だけど。四人で弾けるように編曲したアレンジは講堂を軽やかに音で満たしていく。いつだって僕らは。円香は自分の歌うパート以外は基本ルート音を取ることに徹して、周りに注意を向ける。緊張もほぐれたのか、小糸がオクターブで柔らかなピアノを奏でながらアイコンタクトに笑顔で返してくる。雛菜も肩の力が抜けてリズムにも乱れがない。思いつきでリハモされる透のコードに小節頭でベースのルート音を強調しながら、円香は音を紡ぎ、歌を紡ぐ。ひとつひとつの音がパズルみたいにつながっていって、「私たち」の歌になる。響け、響け。

 演奏の余韻のあと、まばらな拍手にありがとうございましたと頭を下げながら、演奏で火照った身体に、これは達成感と呼べる感情かもしれない、と円香は思った。

 

問一:②

 ぎゅーん、だだだん。だん。ぱちぱちぱちぱち。

 透たちの2曲めの演奏が終わって、控えめな拍手が中くらいの大きさの講堂に響く。私たちの学校の体育館の半分くらいかな。音はつるつるの床で反響して、そんなに力んで演奏しなくてもそこそこよく鳴ってくれる。一音一音が多少ミスっても、そんなに恥ずかしくならないくらいには。ありがとうございまーす。そういって軽く礼をして、透は振り返る。

 面白そうじゃん、刑務所。行ったことないし。「あ、あったら大変だよ……!」といっている小糸ちゃんはちょっと青ざめていて、そんなに怖いのかな、と透は思う。だって、みんなひとだし。たしかに悪いひとかもしれないけど……「透先輩はいいひとですもんね~?」「何の話……」――まあ、とプロデューサーが手を叩く。楽しんできてくれればいい。そんなふうなことをいって、いつもみたいに笑う。

 みんなが透を見ている。「いいね、ちゃんと聴いてくれてるし、みんな。思ったより。」「えっ、う、うん……!」「あは~、そうかもですね~?」みんなの顔がちょっと明るくなった気がする。樋口と目があう。透はこの瞳が、やれやれ、なのか、そうかもね、なのかわからない。あとで聞こう、このライブが終わったら。というか、成功させたら。

 ネックの背に手を滑らせる。息を軽く吸う。ピックが振動を透に伝える。キャビネットから増幅された音があふれ出る。歌なんだ、唐突に透は思う。このギターの一音一音も、――樋口たちの演奏が入ってくる――このみんなの一音一音も。雛菜のドラムもさっきよりも元気だし、小糸ちゃんの指も軽やかに動いてる。いいね。樋口がさっきからちょっと睨んでる気がするけど。コード間違えたかな。それでも、なめらかに四人の音が重なり合う。私たちの音だ。もし「希望の音」というものがあったとしたら――透は思う。その音はきっと、息のぴったりあった音なのだろう。

 ――ま、まあ、失敗してもほら、口コミとかで悪評が広まったりはしないからな! なんてプロデューサーは言って樋口に怒られてたけど。見てよ、透はギターをかき鳴らす。広めてほしい。私たちはここにいるって。言ってほしい。私たちがここにいたって。もっと遠くまでこの音が響いて、どこか遠くまでこの声が聞かれて。そうして――

 ありがとうございましたー。深々と頭を下げる。刑務官がカーテンを開いていって、少しづつ外の光が差し込んでくる。その光がどうにも眩しく見えるのは、きっとうす暗いステージに慣れていたからというばかりではないのだろう。薄く目を細めながら、そう透は思う。

 

 

→次の課題で書いた別視点はこちら

 

メモ

・課題を見ながら悩んでいたらノクチルがバンドを演奏してたら......嬉しい! と急に湧いてきたのでこんな感じに。ル=グウィンも二次創作しちゃだめとは言ってないしね。うちの合評会ではOKとしています(ただ、自分がやるのは練習問題②の問一でリコリコの二次創作をして以来ですね)。今年はじめて書いた文章がこれということで、幸先がいい。
 ちなみに書きはじめる前にざっくりメモを書いてたんだけど、↓これだけでした。ざっくりすぎる。

バンドやってるノクチル

透 ギター

円香 ベース

雛菜 ドラム

小糸 キーボード

 昨日のシャニ5thのライブ、私は見てなかったのですがノクチルがバンド演奏をしていて楽器の担当がこれとおんなじだったらしく、解釈が一致してよかったです。当然透はギターとして、円香はベースだし、雛菜はドラムだし、小糸ちゃんはキーボードなんだよな......

・私の文舵サーバーではなんか音楽の演奏シーンだったり音楽についてを実作で書いて提出する人が多いので、自分も演奏シーンの描写ははじめてながら書いてみたかたち。とくに不自然にはなってはないとのことで、よかったです。三人称で書くのも2回目か3回目くらいだけど、そろそろ慣れてきたのではないでしょうか。

・合評会では「オタクが好きなやつをやってんな~と思った」的なことを言われた。はい...... 楽しんでもらえたみたいでそれはよかった。最初の始まる箇所と終わる箇所を揃えて、あいだで回想するところもだいたい同じ出来事を回想しつつ、どう感じたかで文章が変わってくるような書き方をしたんだけど、回想の比重がそこそこ大きいので同じ出来事を共有してるといえるのか?、といった指摘もあった。難しい。

・円香と透で文体はかなり変えられた感じがあり(そこもいい感じの評価をもらえた)、いままで文舵で書いたものとも文体をそこそこ変えられたと思うのでよかったです。締切時間を間違えてて、透のほうは1時間半くらいで書いたのかな?(私にしては早いほう) 楽しいと筆が進みますね。そういえば透のほうは全部現在時制のみで書いていますが、某作品のリスペクトです。

・「ま、まあ、失敗してもほら、口コミとかで悪評が広まったりはしないからな!」というシャニPの台詞について、いくらシャニPでもこんな最悪ジョークは言わないと思う、というシャニP解釈に対する指摘があった。焦って変にフォローしようとして追い詰められたシャニPだとこのくらいのことは口走りそう、と思ったのだけど、シャニPごめんな......倫理観を信じきれないばっかりに.......

・(さらに雑談)これを書いたのは2月末から3月頭くらいなのだけど、円香のほうを書き終わったあとにYoutubeを見てたらこの動画(雛菜がいつだって僕らはのドラム演奏をしてるMMD)を見つけて、とにかくこだわりの塊みたいな精度にびっくりしてしまった。 

www.youtube.com

しかもトレスでもモーションキャプチャでもなく手打ちとのことで、執念が凄まじい。さらに驚いたのは、このひとがネルドラP(亞北ネルにドラムを演奏させるP)だったということ。亞北ネルといえばドラム、というイメージを作ったひとの作品に令和にまた偶然出会うことになるとは......(亞北ネル自体、名前を知ってる人はいまじゃ少ないでしょうけれど......)

 明日ハ素晴ラシのMVでも亞北ネルさんがドラムを叩いてますからね。という感じで、今年もゆっくり文舵も頑張っていきたいと思います......(途中からの参加者も募集中です)

www.youtube.com

文体の舵をとれ 〈練習問題⑥〉老女

今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。
一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

 

一作品目:一人称、現在時制のみ
 こすり合わせた指にぬめり気を感じる。ひび割れた肌を冷たい水が刺す。たるんだ皮膚、骨張った指先、それらの白に混ざり込むように、深く皺に入り込んだ赤。はやる心臓を落ち着かせるように、念入りに、念入りに手を洗う。指をこする。それでも水の流れを肌に感じていると、少しづつ心が落ちついていくのを感じる。いつから、冷静になるために手を洗うことを覚えたのだろう。思い出したように、ふと、顔をあげて鏡を見る。
 昔の自分が映っている。まだ若かった自分が映っている。きめ細かで弾力のある手のひらを、伸ばして整えた爪を、静脈が綺麗に見える血色のいい手の甲を、流れる水に浸している。いま手を洗っているのは、前回のデートの教訓だ。ほんとうに、今日子ったら酷いんだから! 私を赤面させるようなことを臆面もなく言っておいて、私が頭を冷やそうと、駆け込んだ公衆トイレの洗面所で思わず顔を洗ったらメイクが落ちちゃって、それをあんなに笑うなんて! ねえ、理子、女の子はデート中顔は洗っちゃだめなんだ。化粧直しの時間がないならね。手を洗うといい。そう笑いながら言われた言葉をいま実行しているのは、きょうもまた今日子が変なことを言うからで。思い出して、また顔が赤くなりそうになる。もう、平静に見えるよね? 小さくそういって鏡を覗き込む。
 鏡には老いた私が映っている。目もとを腫らして、手を洗っている。とうに手は冷たくなって、もうすぐ芯まで冷えて痛みに変わろうとするところなのに、いまだに汚れは落ちない。果たして落ちていいのかもわからない。
 ——どうして手を洗ってるの。
 今日子にそう聞かれたことがある。新婚初夜に、同じこの洗面所で。深みのある、あの優しい声色で。視線を上げる。鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから抱きしめられる。重さを、熱を、息遣いを感じる。鼓動を感じる。やわらかな声は私の心臓に直接、さっき交わした約束をいつか、守れなくても大丈夫だと伝えているように思えて、
 ——そんなことないよ。
 力強く、声に出す。いつかそのときが来たら、きっと私はあなたを。
 鏡を見る。今日子と目が合う。絡み合う視線のなかに、遠い未来の約束をする。しっかりと、固く手を結ぶ。
 鏡を見る。私ひとりが映っている。約束を果たして、遠い過去の記憶を辿っている。最後の涙が頬をつたってシンクに落ちた頃にはもう、流れつづける水は、私の手から彼女の血をすっかり洗い流している。
 

 


二作品目:三人称、〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制
 洗面台のシンクを底へと流れていく水には濃い赤が混ざっていた。緩慢に洗い流しながら、彼女は自身の手を見つめた。骨張った指、くすんだ指環、深く刻まれた皺に入り込んだ、粘性のある赤。まだ早鐘を打つ彼女の心臓に、水は冷たかった。
 ずっと昔から覚悟はできていると思っていた。けれど、本当の意味では覚悟などできていなかったのだった。彼女はいまになってそれを痛感した。どこかで、もう残り少ない老い先を、このまま一緒に終わらせられるものと期待していた。甘かった。
 体温を、熱を奪っていく水に、けれど何か、彼女は懐かしさを感じてもいた。忘れていた遠い昔の記憶、彼女はよく手を洗っていた。汚れを落とすためではなく、気を落ち着かせるために。彼女はふと、顔をあげた。
 鏡には彼女が映っている。若いころの彼女が映っている。精一杯のおめかしをして、おろしたてのコートを着て、艶のある手を流水に浸している。頬がほんのり赤いのは別に、チークを塗りすぎたわけではない。
 ――まったく、今日子ったら。
 小さく呟く。彼女が手を洗っているのは、ガールフレンドのアドバイスによるものだ。気分を落ち着かせるには、手を洗うといい。単純明快だ。顔を洗うんじゃなくてね、みたいな余計な言葉がなかったり、そもそも顔を赤くさせたのがアドバイスした本人じゃなかったりすれば、もっといい。いろいろと思い返してはまた赤面しそうになって、もう平静に戻ったはずと、彼女は鏡を見返す。
 鏡に映る彼女は老いていた。目もとを腫らして、手を洗っていた。思い出は少しづつ蘇って、彼女のまわりを巡っていた。あのときも、この洗面所で手を洗っていたのだった。ふたりがほんとうの意味で結ばれた日。遠い未来の約束をした日。
 ――どうして手を洗ってるの。
 顔をあげると今日子が映っている。どこまでも深い黒の瞳は、鏡越しに、まっすぐと彼女を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」ふたりして、くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから彼女を抱きしめながら、今日子がささやく。声色は優しく、けれどその優しさにはどこか悲観があるように彼女の胸に響く。もっと頼ってくれていいのに。もっとわがままでいいのに。
 ――そんなことないよ。
 だから声に出して、彼女は今日子の言葉を否定する。ふたりの選択を肯定する。
 彼女は鏡を見る。ふたりが映っている。無数の未来が開かれている。終わり方はきっとひとつでも、いつか私が今日子を殺めるその日まで、私たちはふたりなのだと、繋いだ手の温かさに、彼女は確信する。
 彼女は鏡を見た。彼女はひとりだった。ひとりになってしまった。刻んだ皺、低くなった目線、狭くなった視界。彼女は自分の手を眺めた。綺麗に洗い流してしまった手には、もはや何も残っていないように見えた。くすんだ指環の裏側、指とのあいだに入り込んだ赤は、誰にも気づかれずに、ただ、その色を残していた。

 


メモ

・さいしょに書いておくと、参考にいろいろ先人の書き方を調べるなかで読んだ鷲羽さんという方の実作にかなり影響を受けています。これは本当にすごい。今回はこういうの書けたらいいな〜と思って書きました。まあ到底、というところですが。
・今回のプロットと形式について。
 ・主人公は二回以上「思い出す」必要があるわけだけど、明示的に思い出させるのも野暮ったいので、それ以外の手法も使いたい
 ・語り落としに加えて、一人称視点と三人称視点の差で読み方が変わるような書き方ができると嬉しい
あたりをざっくり考えながらお風呂に入ったところ、プロットが一気に降ってきました。お風呂に鏡があってよかったです。
・一作品めの方は過去時制のみと現在時制のみの両方で軽く書いてみて、時間の転換がより鮮やかになったので現在時制のみで書くことにした。合評会で「映画てきな効果があった」と言われ、意図したところだったのでにこにこに。
・しかしながら、二作品めで同じ物語をほとんど変わらない視点で(けれど異なる仕方で)語り直すというのはかなり苦しかった。文章に固有のリズムや流れをねじ曲げる必要があるのに、しかしプロットはそのまま、というのが難しい。というか苦しい。いまを過去時制、過去を現在時制というあまりない書き方は勉強になりこそすれど別に書く分には困らなかったものの、どう一作品めと差異をつくるかはかなり悩んだ。結果として説明てきな内容を増やす、一人称ではなかった指環を生やすことで「主人公には意識の外にあるが重要な意味を持つモチーフ」の対比をつくることはできたが、それは果たして実効的なのか? は読者に委ねるところ。
・今回の修辞表現としては「鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。」はかなりお気に入り。あえなく二作品めではばっさりカット。ナボコフがロリータの冒頭の押韻をロシア語版では泣く泣くカットしてるみたいなもんやね(何様?)
・登場人物としてカップルを選ぶとき、それを男女にするのが「一般的にそうだから」くらいの理由であれば、「わざわざ」男女を選ばなくとも、女女でも男男でもいい、というのはふだんから考えているところではあるんだけど、こういう三人称で書く場合に男女にするのは明確な利点があって、「彼」「彼女」で一意にだれを指しているのかがわかるようになる。今回、三人称の方は「彼女」「今日子」のふたつで二人の登場人物を指し示しているものの、多少の違和感はあるように思う。いわゆる三人称全知で書いたとしたら、片方だけを特権的に「彼女」としたら相当の違和感が出るはず。
・投稿の順番がノクチルのやつと前後したものの、これが去年最後に書いた文舵の課題になる。ちゃんと小説を書き始めたのが文舵と同時なので、これでほぼ半年、ということになる。筆力はさいしょよりはついたと思う。間違いなく、文章を構成する要素に以前よりは自覚てきに書ける/読めるようになった。ただ、この回の合評会中に「特殊な課題だったけど誰がどれ書いてるかはわかるしあんまり違い(効果)がわからない」という発言があって、それもまあ理解できた。私は文体はけっこう課題ごとに切り替えたつもりで、じっさいかなり差異があると思うんだけど(たとえば練習問題②の問二と③の問二、第四章の問一で見ればぜんぜん違うはずだ)、「よく使う文体」はあって、その文体の芯みたいなものはそんなに変わっていない。
・まあ変わる必要があるかといえばないわけだけど、同じものしか書けないと思われるのも癪なのでノクチルのやつではいままでと若干違う文体ふたつで書けたように思う。そういう経緯もあった。

文体の舵をとれ 〈練習問題⑤〉簡潔性

 一段落から一ページ(四〇〇~七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。

 

 早朝、師走の海沿いを進む列車は、すべてが今日になり損ねて昨日のままのような、ある種の静謐さを湛えていた。とっておきの秘密を共有するように小声で語り合う学生たち、すり減った手袋を膝の上に揃えて眠る旅行客、それらを照らす透き通った朝の光。

 車窓に寄せた手のひらに息を吹き込んで暖をとる。昨夜この地域一帯を覆い尽くした初雪は、豪雪地帯の列車の運行をとめるには至らなかったものの、予算削減にあえぐ鉄道会社の吐息ばかりの暖房を制して、窓からドアの隙間から、めぐった季節の冷たさを送りこんでいた。

 マフラーの巻きを強めて、規則的に揺れる振動に身を任せる。逃げるように飛び込んだ列車は、それでもいつもどおりに私たちを運んでいく。 目の奥を刺す雪の白。その向こうで灰色に輝く海の、音には聞こえない息遣い。一定のリズムで揺れるシートの上で、ガラスを隔てた世界のすべてが、澄んだ朝の気配にその一息までも自覚的になる私の呼吸と調和して。

 ――胸元にしまっていた携帯電話がその静寂を遮った。

 慌てて着信音を止める。心臓は想像以上に乱れていた。昨日の記憶。屈辱。怒り。私がいまこの列車に揺られている理由。深呼吸する。心臓は想像以上に乱れていた。全部を置いてきたはずだったのに。携帯なんて持ってくるんじゃなかった。

 乗客のみなさんすみません。心のなかで何度も唱えながら、持ち手を押し上げて窓を開ける。

 外の風が隙間をこじ開けるように吹き込んで全身を冷やす。視線が集まっているのを感じる。十秒もあれば足りるだろう。

 手を振りかざして、窓の外へ携帯電話を放り投げた。遠く遠くに飛んで、刹那に視界から消える。勢いに任せて窓を閉める。静寂が、あたたかさが戻っていく。

 これで一件落着だな、と思う。車窓から差し込む朝日に、かじかむ手のひらを透かした。この電車の行き先は、私も知らない。

 

 

メモ

・課題が「簡潔性」なので、あえて副詞も形容詞もなしに細やかで叙情的な文章が書けないか、と思って頭を悩ませていたところ、こういう文章になった(特に前半)。読み返すとちょっとくどい気もする。「すべて(全部)」「いつも通り」「遠く」あたりは副詞的に用いられることもあるけれど、名詞として使っているので名詞です。あと、「〇〇さ」で名詞化したり、「〇〇的」とか「のように」みたいなせこい表現を多用している。せこい表現ってなに?

・携帯電話を投げ捨てるのは瀬戸口廉也がよく使うモチーフですね。合評会では後半部分が息切れ感というか、急に表現が簡潔になりすぎではみたいな指摘があったので、バランスがよくなるように多少手直しをしました。動きがないし展開もないねぇ~と思っていたら偶然携帯電話を投げる後半のシーンを思いついたので、前半と若干コンセプトが異なっていたところがあった。上手く緩急になってくれていればいいのですが。

・実を言うと、書いたのが11月とかなので書いたときのことはあんまり覚えていない。文章のリズムや表現で共起される流れで次の文章を書きすすめるような書き方を多用しているので、言葉遣いの段階で語彙が極端に制限されるとアウトプットするのにめちゃめちゃ時間がかかった記憶がある。

自選短歌(2)

 

 

海だから 二十五センチメートルのこの水槽を母としようか

 

 

テレビからマジカルビーム世界が破滅したあとの景色をお送りします

 

 

もういくつ寝るとお正月 廃墟みたいな実家の窓辺

 

 

まあそんな感じで日は暮れていきます忘れた頃の痛みみたいに

 

 

泳ぐのは春の驟雨の歩道橋ふりさけ見れば傘のパノラマ

 

 

山はねぇいいよ空気がおいしいしたまにリスとか見れるらしいし

 

 

餅が好き。たぶん死んでも餅が好き。墓石は餅でお願いします。

 

 

ウルトラハイコンテクストそれは夢だから縦になるまで寝ててもいいよ

 

 

毎日がんばっていこうよ丁寧な暮らしの先の地獄を見にさ

 

 

撫でられる犬/食べられるものもなくただただそこでただずんでいる俺

 

 

早起きも魅力的ではありますが布団がわたしを好きすぎるので

 

 
 

選外

大工はねぇいいよ体が大きいしたまにビスとかくれるらしいし

 

 

ワニはねぇいいよお口が大きいしたまに人とか食べるらしいし

 

 

シャケはねぇいいよとにかくおいしいしたまに川とか遡(のぼ)るらしいし

 

 

君はねぇいいよいつでも優しいし玉に瑕とか思ってないし

 

 

旅はねぇいいよ私を知らないしたまに街とか歩くらしいし

 

 

前回

[全訳]デリダ「人間科学の言説における構造、記号、遊び」 ディスカッション

凡例

一、原文でイタリックで強調されている語には傍点を付した。

一、原語を示す場合には、()で括った。

一、原文に[]で補足されている内容については〔〕で訳出した。ただし、補足内容がたんにフランス語訳である場合には、そのまま()で括った。

一、訳注は末尾にまとめているが、一部本文中に〔※訳注:〕の形で挿入した。

 

 

 ジャン・イポリット:称賛すべきプレゼンテーションと議論を披露してくださったデリダに、率直に、プレゼンテーションの技術的な出発点がまさに何であったのかの説明をお聞きしたく思います。それは、構造の中心の概念への問い、すなわち中心とは何を意味するのかという問いです。たとえば、ある代数的な構造物〔の全体〕の構造を取り上げたとき、その中心はどこにあるのでしょうか?

 中心というのは、私たちが諸要素の相互作用を理解することを曲がりなりにも可能にするような、一般的な諸規則についての知識なのでしょうか? それとも、全体のなかで、ある特権を享受している特定の要素が中心なのでしょうか? 思うに、私の疑問は、中心を抜きにして人は構造について考えることができないということ、そしてその中心自身は「解体されている(destructured*1)」ことと関連しています。違いますか? 中心は構造化(structured)されてはいないのです。人間の科学(sciences of man)を研究するにあたって、私たちが自然科学から学ぶべきことはたくさんあります。それらは、私たちが次々に自分自身に投げかけるさまざまな問題のイメージのようなものです。たとえば、アインシュタインとともに、私たちはある種の経験的証拠の終焉を見ます。そして、それに関連して、時空の組み合わせである定数の登場も目撃します。これは、経験を生きる実験者のいずれにも属していませんが、ある意味で、構成全体を支配しています。そしてこの定数の概念――これが中心なのでしょうか? しかし、自然科学はさらに進んでいます。もはや定数を探すのではありません。何らかの起こりそうもない出来事があって、それがしばらくの間、構造と不変性をもたらすと考えているのです。それは、すべての出来事はあたかもある種の突然変異のように、いかなる作者や人の手にも依らず、手書き原稿の読み違え(the poor reading of a manuscript)のように、構造の欠陥として〔のみ〕実現されるということ、単に突然変異として存在するということでしょうか? このようなことなのでしょうか? それは、起こりそうもないハプニングによって偶然生み出される遺伝子型のような性質の問題なのでしょうか? ひと続きの化学分子が絡み合って特定の仕方で組織化し、具現化されるものとしてのひとつの遺伝子型をつくりだし、そしてその遺伝子型の起源は突然変異のうちに失われている、そうしたひとつの接合*2のような性質の構造の問いなのでしょうか? それがあなたが向かおうとしているものなのでしょうか? なぜなら、私自身、その方向に進んでいると感じており、歴史的なもの(the historic)の統合の実例を――私たちがある種の歴史の終焉について語っているときでさえ――そこに見いだしているからです。構造の具体化のまさに中心にあるということがありえない限り、出来事(、、、)という形式のもとで、まさに、もはや終末論的歴史とは何の関係もないこの歴史は、起源が絶え間なく置き換えられるために、それ自身の探究においてつねに自らを失っているのです。そしてご存知のように、私たちが今日話している言語、言語活動(ランガージュ)という意味ですが*3、それは遺伝子型について、そして情報理論について語られているのです。

 自然が、突然変異を実現してきただけでなく、永続的な突然変異体たる人類をも実現すると考える一種の自然哲学に照らして、この意味抜きの記号(this sign without sense)、この永続的な後退を理解することができるでしょうか? つまり、ある種の伝達の誤りや奇形が、つねに奇形であってその適応が絶え間ない逸脱であるような存在を生み出したのであり、また、人類の問題は、あなたがやりたいこと、あなたが今現在進行中のことのはるかに大きな領域の一部になるでしょう。つまり、中心の喪失――特権的であったり、起源であるような構造がないという事実――は、人間が元の場所に返されるだろうまさにこの形式の下に見ることができるのでしょう。これがあなたが言いたかったことでしょうか、それとも何か他のことを言おうとしていたのでしょうか? これが最後の質問になります。長々と話してしまったことを謝罪します。

 

 ジャック・デリダ:あなたの発言の最後の部分について、私は完全に同意すると言えます――しかし、あなたは質問をしていましたね。私は自分がどこへ向かっているのか、自分でもよく不思議に思っていたのです。ですから、まず、正確に言えば、自分がどこに向かっているのか、もはやわからなくなるような地点に私自身を置こうとしているのだ、と答えることにします。そして、この中心の喪失について、もはや中心の喪失による悲劇ではなくなるような「非-中心」という考えに近づくことを私は拒否します(、、、、、)――この悲しみは古典的なものです。そして、私はこの中心の喪失が肯定されるような考えに近づこうと考えた、ということを言いたいわけでもありません。

 あなたがおっしゃったこと、自然の産物における人間の性質や状況については、私たちはすでに一緒に議論してきたと思います。私はあなたの表現したこの不公平(partiality)を、あなたとともに完全に引き受けようと思います――あなたの言葉〔の選択〕を除いて。そしてここでは、つねにそうであるように、言葉はたんなる言葉以上のものです。つまり、私は明瞭な代替案を提供する準備はしていませんが、あなたの明瞭な定式化を受け入れることもできないのです。ですから、私が自身がどこへ向かっているのかを知らないものとして、私たちが使っている言葉が私を満足させるものではないものとしたうえで、これらの留保を念頭に置いて、あなたに全面的に同意します。

 ご質問の最初の部分についてですが、アインシュタイン定数は定数ではなく、中心でもありません。それはまさに変動性の概念であり――最終的にはゲームの概念なのです。言い換えれば、それは何もの(、、)かについての概念、つまり観測者がその場を支配できるような中心の概念なのではなく、しかし結局のところ、私が念入りに組み立てようとしていたゲームの概念そのものなのです。

 

 イポリット:それはゲームにおけるひとつの定数(a constant in the game)なのでしょうか?

 

 デリダ:それは定冠詞付きの(、、、、、、)ゲームの定数(the constant of the game)です......

 

 イポリット:定冠詞付きのゲームのルール。

 

 デリダ:それはゲームを統治する(govern)ことのないゲームのルールであり、ゲームを支配する(dominate)ことのないゲームのルールです。いまではゲームのルールはゲームそれ自体によって置き換えられており、そのとき私たちはルール(、、、)という言葉以外のものを見つけなければなりません。代数学に関係することで言えば、たとえば、有効数字のグループや、お望みなら記号のグループといったものが中心を奪われている例だと思います。しかし、代数学はふたつの観点から考えることができます。一方では、これまで述べてきたような、絶対的に脱-中心化されたゲームの実例あるいは相似物として。そしてもう一方として、私たちは代数学フッサール的な意味での生産物として、つまり、歴史や、生活世界(Lebenswelt)や、主体などから始まって、そのイデア的対象を構成し、創造する、そうしたイデア的対象の限定された場として考えることができ、その結果として私たちは、そのなかに、一見失われて見える意味をもつものが派生している起源を再活性化させることで、つねに代替物をつくることができるはずなのです。思うに、代数学はこのような仕方で古典的な思考だったのでしょう。そうでなければ、ゲームのイメージとして考えることもできるかもしれません。あるいは、私たちが主体や人、歴史と呼ぶような活動によって生み出されるイデア的対象の場として代数学を考えることで、古典的な思考の場に代数学の可能性を取り戻すか、はたまた、代数学を徹頭徹尾に代数的な世界を映し出す不穏な鏡として考えるか、ということです。

 

 イポリット:そのとき構造とは何でしょうか? もし、もはや代数学の例がつかえなくなったとしたら、中心がどこにあるのかを見るために、どうやって構造を定義するのですか?

 

 デリダ:構造という概念それ自体が――これは余談ですが――もはやゲームを記述するのに十分なものではないのです。どのように構造を定義するのか? 構造は中心にあるべきでしょう。しかしこの中心は、古典的にそうであったように、創造主や存在、あるいは固定された自然な場所のように考えることもできれば、あるいは、たとえばひとつの欠如として考えることもでき、「機械の遊び(jeu dans la machine)」や「コイン遊び(jeu des pieces)」と語られる意味での「遊び」*4を可能にするような何かであり、そしてそれは受け取り——これが私たちが歴史と呼ぶものですが——を行います。一連の決定や、この欠如から始めなければシニフィアンになることのできない、最終的にはシニフィエを持たない一連のシニフィアンを受け取るのです。ですから、私が述べたことは、たしかに構造主義に対する批判として理解することができると思います。

 

 リチャード・マクシー:あなたの暫定的なゲーム理論に代表される形而上学批判で、あなたのチームに参加できるプレイヤーを時期尚早に特定しようとした私はオフサイド(hors jeu)をしていたかもしれません。しかしながら、あなたとニーチェが私たちに熟考を促すこの恐ろしい展望を、ふたりの現代の人物が見るかもしれないという共鳴に、私は心を打たれたのです。私はいま、一人目として、ハイデガーとのあいだに独特の逆説的な関係を持っている「改革派の」現象学者であるオイゲン・フィンク*5の晩年の経歴について考えています。クレーフェルトやロワイヨモンでのコロキウムの時点で、かれはすでに、「存在(Sein)」、「真理(Wahrheit)」、「世界(Welt)」を、単一で根本的な問題の還元不可能な部分であるとみなすために、概念的世界の二次的な地位を主張する用意があったのです。たしかに、かれの『事前問答(Vor-Fragen*6』やニーチェの本*7の最終章で、かれはツァラトゥストラ的なゲーム(、、、)の概念を、哲学の外側(あるいは背後)への一歩として進めています。かれのニーチェハイデガーニーチェを比較するのは興味深いですよ。ハイデガーが「存在(Sein)」を「存在者(Seiendes)」より優位においているのを逆転させるかれの議論が、それによって私たちの発表したトピック、「人間(、、)科学(les sciences humaines)」のポスト・ヒューマニズム批判に興味深い結果をもたらすことに、あなたも同意していただけるのではないかと思います。たしかに、『遊びー世界の象徴として(Spiel als Weltsymbol)』において、統括する「ワールドゲーム」は、プラトン的な存在(being)と仮象(appearance)の区分以前にあり、人間的、個人的な中心を奪われている、非常に前にあって匿名的なものなのです。

 もうひとりは、「満場一致の(、、、、、)夜」〔※訳注:という表現*8〕において、かれのフィクションの詩学の中心をナラティブのゲームに移行させたあの作家、迷宮の建築家かつ囚人、ピエール・メナールの生みの親。

 

 デリダ:きっとあなたは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスについて考えているのでしょう。

 

 シャルル・モラゼ:一言だけ。言語以外の文法の可能性についてのレヴィ=ストロースとの過去20年にわたる対話に関してですが――私はレヴィ=ストロースが神話の文法秩序について行ったことに大いに敬服しています。私は、同様に出来事の文法も存在するということを――ひとは出来事の文法をつくることができるということを――指摘したく思います。それは確立することがより困難なものです。私たちは今後数ヶ月、数年のうちに、この文法、というよりもこの一連の出来事の文法が、どのように構成できるのかを学び始めると思います。そして〔この文法は〕、私の個人的な経験によればですが、あなたが示したものよりも少し悲観的ではない帰結をもたらすでしょう。

 

 リュシアン・ゴルドマン:私がいいたいのは、私はデリダの結論には同意できませんが、かれがフランスの文化生活に触媒的な役割を果たしていることがわかり、それゆえにかれに敬意を表するということです。私はかつて、かれは私の、1934年にフランスに来たときの記憶を思い出させてくれると言ったことがあります。当時、学生たちのあいだでは非常に強力な王党派運動があり、突然、同じように王党派を擁護するグループが現れたのですが、それは本物のメロヴィング朝の王を要求していたのです!

 主体あるいは中心を否定するこの運動、言ってみれば、デリダが見事に定義したこの運動において、かれはこの立場を代表するすべての人びとにこう言っているのです。「しかしあなたは自分自身と矛盾していて、けっして最後までやる遂げることはありません。最後に、神話を批判するさいに、もしあなたが批評家の立場、存在、そして何かを言う必要性を否定するのなら、あなたは自分自身と矛盾しているのです。なぜなら、いまだにあなたは何かを言っているM. レヴィ=ストロースなのですから。そしてもし、あなたが新しい神話を作るのであれば……*9

 ええ、批判は卓越したものでしたから、改めて取り上げる必要はないでしょう。しかし、もし私が、テクストに加えられた破壊的な(destructive)性質を持ついくつかの単語に注目したならば、私たちはそれを記号論のレベルで議論することができるでしょう。しかし、私はデリダに質問したいと思います。非合理主義者から形式主義者まで、現代のあらゆる潮流が志向する一連の仮定に基づいて議論するのではなく、あなたの目の前にはまったく異なる立場、たとえば弁証法的な立場があると仮定してみましょう。簡単に言えば、科学は人間がつくるものであり、歴史は誤りではなく、あなたが神学と呼ぶものは許容可能なものであり、世界は秩序だっているとか、神学的であるとか言うのではなく、人間は最終的にどこかの時点でその意味に抵抗するだろう言葉に意味を与える可能性に賭けているものであると考えるのです。そして、あなたの言う典型的な二分法の状態の前にあるものの起源や基本的なもの(あるいはグラマトロジー*10においては、意味が存在する前に登録する行為)は、今日私たちが研究しているものですが、私たちは内部から突き抜ける(penetrate)ことはできませんし、そうしたいとも思いません。というのも、沈黙のうちでしか内部から突き抜けることはできないからです。私たちが自分たちが練り上げた論理にしたがって理解しようとし、どうにかしてさらに前進しようとするとき、それは神などによって隠された意味を発見するためではなく、人間の役割として世界に意味を与えるためなのです(さらに、人間がどこから来たのかを知らずに、私たちは完全に無矛盾になることはできません。というのも、もし質問が明確であれば、知ってのとおり、もし人間は神から来たと言えば、誰かが「神はどこから来るのか」と尋ねるでしょう。そして、もし人間は自然から来たのだ、と言えば、誰かが「自然はどこから来るのか」と尋ねるでしょう。などなど。)。しかし私たちは内部にいて、このような状況にあるのです。では、あなたの前にあるこの立場は、やはり矛盾しているのでしょうか。

 

 ヤン・コット:かつて、マラルメのこの有名なフレーズは非常に意味深いものに見えました。「賽の一振りは決して偶然を廃することはないだろう。("Un coup de dés n'abolira jamais le hasard.")*11」 あなたが私たちに与えてくれたこの講義の後で、こう言うことが可能ではないでしょうか。「そして偶然も決して賽の一振りを廃することはないだろう!("Et le hasard n'abolira jamais le coup de dés."*12)」

 

 デリダ:コット氏には、即座に「はい」と答えます。ゴルドマン氏が私に言ったことについては、私が言ったことのなかで、かれが破壊的と呼ぶ側面を切り取っているように感じます。しかしながら、私は、私が言ったことのなかには破壊的な意味を持つものはなかったという事実を、かなり明白に述べたと思います。私はそこここで脱構築(、、、)déconstruction)という言葉を使いましたが、これは破壊(destruction)とはなんの関係もありません。つまり、脱構築はたんに(そしてこれ(is simply a question of)が古典的な意味での批評に必要なことですが)、私たちが使っている言語の含意や歴史的な沈殿作用に注意を喚起することなのです――そしてそれは、破壊ではありません。私は古典的な意味での科学的な仕事の必要性を信じていますし、現在行われているすべてのこと、さらにはあなたの行っていることの必要性をも信じています。しかし、科学、人類、進歩、意味の起源といったものを不毛化する危険性があるという口実で、私やほかの誰かが、批評的な仕事の急進性を放棄しなければならない理由がわかりません。私は、不毛と不毛化のリスクはつねに明晰さの代償であると信じています。最初のアネクドートについて、私はかなり悪く捉えています。なぜなら、それは私を超王党派(ultraroyalist)、つまり少し前に私の母国で言われたように「ウルトラ」と定義するものですが、しかしながら私は自分のしていることについて、はるかに謙虚で、控えめで、古典的な概念で捉えているからです。

 モリゼ氏の言及した出来事の文法についてですが、私は出来事の文法が何であるかを知らないので、かれの質問に戻らなければなりません。

 

 セルジュ・ドゥブロフスキー:あなたはいつも非-中心(、 、、)について話しています。どのようにすれば、あなた自身の視点で、知覚とは何なのかの説明をしたり、あるいは少なくとも理解したりすることができるのでしょうか。というのも、知覚とは、まさに私に中心化されて(、、、、、、)世界が現れる方法だからです。そしてあなたは言語を平らなもの、あるいは水平なものとして表現していますが、現在、言語はまた別のものです。メルロ=ポンティが言ったように、それは身体的な志向性(intentionality)なのです。そしてこの言語の使用から出発すると、言語の意図(intention)がある限りにおいて、私は不可避的に、ふたたびある中心に行きつくのです。というのも、話すのは「だれか(”One”)」ではなくて「私(”I”)」だからです。そして、たとえその「私」を削減したとしても、ふたたび志向性の概念に行き着かざるをえないでしょう。思うに、この概念は思考の根底にあるもので、そのうえ、あなたはそれを否定していません。したがって、あなたはそれを自身の現在の試みとどのように調和させているのか、お尋ねします。

 

 デリダ:まず第一に、私は中心がないとは、中心がなくてもやっていけるとは言っていません。私は、中心とは機能だと信じています。ひとつの存在――ひとつの現実(reality)ではなく、ひとつの機能だと。そしてこの機能は、絶対的になくてはならないものです。主体は絶対的に必要不可欠なものです。私は主体を破壊することはありません。位置づけるのです。つまり、私は、経験においても、また哲学的および科学的言説においても、特定の段階においては、主体の概念なしには成り立たないと信じています。主体はどこから来て、どのように機能するのかということが問題なのです。だからこそ、私は、必要不可欠だと説明した中心という概念も、同様に主体という概念も、そしてあなたが言及された概念体系全体も保持しています。

 志向性について言及されたので、率直に、志向性の運動を創設しようとしている人たちを見てみようと思います――それは志向性という言葉では捉えることのできないものです。知覚については、私はかつて必要な保全だと認識していたと言っておかなければならないでしょう。私はきわめて保守的でした。いま、私は知覚が何であるか知りませんし、知覚が存在するなどとはまったく信じていません。知覚とは、まさに概念です。直観の概念あるいは物自体に由来する所与の概念であって、言語や参照系からは独立して、それ自身の意味のなかで現れるものです。そして私は、知覚は起源や中心の概念と相互依存の関係にあり、その帰結として、私がこれまで話してきた形而上学に打撃を与える内容は、まさに知覚の概念をも打撃すると考えています。私は、知覚というものがあるとは少しも信じていません。

 

 

 

蛇足(訳者解説......のようなもの)

 この文章は、デリダが1966年にジョンズ・ホプキンズ大学で行った講演「人間科学の言説における構造、記号、遊び」のディスカッション(質疑応答)部分の全訳である。「人間科学の言説における構造、記号、遊び」自体は『エクリチュールと差異』に収録されているため、邦訳も豊富にある(喜ばしいことに、今年改訳版も出た)。しかしながら、このディスカッション部分については邦訳はいままで存在しなかった。

 もともとデリダの発表は「批評の言語と人間科学("The Language of Criticism and the Sciences of Man")」と題された学会の一部分で、The Structualist Controversy, Ed. Richard Marksey and Eugenio Donato, The Johns Hopkins Press University Press, 1970 にはすべての発表が収録されている(もちろんこのディスカッションも収録されている。ネットで調べればpdfが出てきてしまうので、誤訳を見つけて鬼の首を取ったように指摘してほしい)。

 この学会には当時まだ無名だったデリダ*13のほか、ジラール、ド・マン、ラカン、バルト、イポリット......といった錚々たるメンバーが参加しているが、そこで行ったデリダのこの講演「構造、記号、遊び」――ソシュールからレヴィ=ストロースまでの構造主義への大々的な批判、新たに提出した諸概念――のインパクトによって、ここからポスト構造主義が始まったとされる、というようなことは有名な話である*14

 しかしながらこのインパクトは同時にデリダの意図を離れた影響をもたらしていた。たとえば、脱構築は主体を否定するもので、文脈を離れた自由な戯れしかもはや存在せず、すべての議論は無限後退に追いやられていってしまうというような、浅薄なデリダ理解がそれである。

 本文をお読みいただければわかるように、デリダはこの初期も初期の発表のなかで、同様の疑問をぶつけられ、明確にそれを否定している。

主体は絶対的に必要不可欠なものです。私は主体を破壊することはありません。(...)主体はどこから来て、どのように機能するのかということが問題なのです。」

 ポスト構造主義者と呼ばれる原因をつくったその講演のうちに、ポスト構造主義者としてのちに論駁されることになる批判の大半について否定しているわけだ。つまり、いわば最速で「置き論破」みたいなことをしているわけだけれど、それにもかかわらず、死後に至るまで、主体を否定しているだとか、相対主義者だとか言われてきたわけである。かわいそう。

 このディスカッションでこうしたやりとりがされていることは、わりとデリダ研究者などのあいだでは有名な話らしいのだが、私は2年近く前に初めて聞いた。私がデリダについて学び始めてすぐの時期だったから知らなかっただけかもしれないが、いまでも日本語の文献では言及のあるものはほとんど見たことがない*15。その意味でこの翻訳は、デリダの研究が初期の段階からどのような意図のもとで行われていたのかを、日本の読者が知る一助となってくれるのではないかと思う。

 しかしながら、日本の研究者によるデリダについての丁寧な研究も増えてきた現在、化石みたいなこの文章を翻訳する意味はあったのか? というとなかなか答えに窮するところはある。たいていのディスカッションにつきもののように、だいたいの発言は放言といっていい気がする(オイゲン・フィンクもボルヘスも、ポスト構造主義者として活躍したという話は聞いたことがないし、マラルメを引用したくて仕方ないだけのひともいる)し、どこかしら、だれもが浮かれて発言している感じがある。

 ただ、だからこそ、とも言えるだろう。いまでは過去のテクストとして、「古典」にすらなってしまった「エクリチュール」も、まさに「話された」その当時には、聞いたひとたちがそれぞれの文脈のなかで理解し、感服し、ここから始まるかもしれない未来を思い描いた。ここには、たんに過去のものとしてテクストを読解するときにはけっしてたどりつくことのできない景色がある。熱量がある。外れた未来予想、言及されたもののその後書かれることのなかった題材、個人の思い出と重ねあわせて語られる質問。すべてが、けっしてひとつの方向を向いてはいない。ただテクストを一義的な存在として解釈しようとすることから遠く離れて、その豊穣な可能性に、未来からは選ばれなかった可能性に目を向けるとき、そのテクストの本来の多義性がたち現れてくるのかもしれない。

*1:デリダの「脱構築(déconstruction)」がハイデガーの「解体(destruktion)」)に由来していることは有名だが、ここでのイポリットはたんに「破壊されている」という意味合いで使っているかもしれない。

*2:meeting。meetはもちろん一般的な動詞だが、ここではおそらく生物学的な意味合いでつかわれている。

*3:原文では"à propos of language"とあるが、à proposと言っておいて"language"と英語なのは不自然に思われる。ソシュール的な意味合いに目配せして« à propos de langage »という意味合いで使ったと捉え、上のように訳した。

*4:原文では“free-play”。これは英語版Wikipediaには専用の記事も存在する(https://en.wikipedia.org/wiki/Free_play_(Derrida)デリダテクニカルタームだが、日本語では定訳はない(はず)。ここでは『エクリチュールと差異〈改訳版〉』の表記に準拠して、たんに「遊び」と訳した。

*5:どうしてカトリックに出自をもつオイゲン・フィンクに対して”reformed”という言葉をつかっているのかは不明。

*6:フィンクの"Sein, Wahrheit, Welt": Vor-Fragen Zum Problem Des Phaenomen Begriffs(『「存在、真理、世界」――現象概念の問題をめぐる事前問答(未邦訳)』)のこと。

*7:同じくフィンクのNietzsches Philosophie(邦訳『ニーチェ全集 別巻ニーチェの哲学』)のこと。

*8:ボルヘスが短篇「円環の廃墟」の冒頭で使用した表現(“Nadie lo vio desembarcar en la unánime noche [...]” 「満場一致の夜に船を降りたかれを見たものは誰もなく(...)」)のこと。「夜(noche)」を修飾する単語として”unánime(満場一致の)”を選んだ点で、かれを讃える多くのひとや多くの論文を生み出した、らしい。たとえば以下の記事によれば、「ホルヘ・ルイス・ボルヘスは短編「円環の廃墟」のなかで、かれの文学的天才性の金字塔としてしばしば引き合いに出される一文を書いた。」https://www.elespectador.com/opinion/columnistas/j-d-torres-duarte/la-unanime-noche-una-teoria-sobre-borges/#

 ちなみに、鼓直訳の岩波版では「闇夜に岸に上がった彼を見かけた者はなく」と、翻訳を諦めている(『伝奇集』p.71)。

*9:”because you are still M. Levi-Strauss who says something and if you make a new mythology. . . .” よくわからない。

*10:この講演はデリダが『グラマトロジーについて』を1967年に出版する前年、1966年に行われたものである。ただ、『グラマトロジーについて』の第一部は1965年に発表されている。

*11:日本では「骰子一擲」の名前でも有名。デリダも好んで引き合いに出す詩。

*12:square bracketsで追記されたフランス語では「!」が削除されている。興奮した口調のコットがたしなめられているかのようでかわいそう。

*13:もともとデリダはこの講演に、ベルギーの人類学者であるリュック・ド・ウーシュの欠席の代打として急遽呼ばれたに過ぎなかった、という話もある。 https://hub.jhu.edu/magazine/2012/fall/structuralisms-samson/

*14:デリダが評価され大々的に受容されたのはフランスよりもむしろアメリカが先(その次に日本といった具合)で、それも主にテクスト批評の一手法として理解された脱構築だった、というようなこれまた有名な話も、この講演がアメリカで行われたことと無関係ではない。当時の需要などについては、たとえば巽孝之「危機の現代批評 : アメリカ解体派について」が詳しい。 https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BN01735019-00000003-0207

*15:英語の文献でなら、たとえば以下などでディスカッションについても言及されている。Tim Smith-Laing, An Analysis of Jacques Derrida's Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences https://www.amazon.co.jp/Jacques-Derridas-Structure-Discourse-Science/dp/1912453525

樋口円香の単色アイコンについて

 時がすぎるのはあまりに早い。

 同じ昨日を繰り返しているようで、また訪れる今日はすこしづつその軌道を変えて、私たちはいつの間にか遠くどこか離れた場所にいるものです。

 半年前に私たちが何について話していたか、覚えていますか?

 

 

 

 そう、樋口円香さんの単色アイコンについてですね。

 

 

 シャニマス4周年企画の一環で公開された、各アイドルユニットのチェインのグループチャット画面(※チェイン:シャニマスにおけるLINEのようなもの)。

 樋口円香さんが自身のアイコンを単色アイコンに設定していることは、大きく話題になりました。主に私のなかで。

 しかし、たとえば「円香 単色アイコン」で検索しても、以下の記事が投稿される以前には3件あるのみ、それ以降はこの記事についての言及がほとんどです。

 「透 雛菜 アイコン」で検索すれば浅倉透さんが市川雛菜さんの宣材写真をアイコンにしていることへの言及ツイートがたくさん出てくることを鑑みれば、明らかに少ないと言えるでしょう。

 そして私は、唯一まとまった文量で書かれた考察記事といえる以下の記事の主張には、全面的に賛同できません。

 そう、声を大にして言いたい。樋口円香さんは実はそんなにキモくない! と。

sasatanwwwww.hatenablog.com

 

 まず論点を整理しましょう。

 上の記事では、

・「Twitterが単色アイコンの人は、LINEも単色アイコンであるという不完全な前提」のもと*1

Twitterの単色アイコン界隈の特徴に言及し(「名前が概念的で、ツイートが何を言っているのか分からないアレ」)、

・「樋口円香がそんな単色アイコンであることが、わたしにとっては少なからずショックでした。」と述べます。

そのうえで、

・筆者には樋口円香さんがTwitterを使っている想像がつかないので、彼女の単色アイコンはTwitterの単色アイコン文脈と関係がない、という留保を入れたうえで、

・「自分のセンスで「単色アイコンがいい」と判断してLINEを単色アイコンにしている」という点をもって、

・「単色アイコンを選ぶセンスが一致している時点で、Twitterの単色アイコンも樋口円香もある程度同じ感性を持った人間

 と結論づけます。(強調原文)

 

 このシンプルなロジックを支えているのは、筆者自身太字で強調している「自分のセンスで「単色アイコンがいい」と判断してLINEを単色アイコンにしている」という一点でしょう。

 本当にそうなのでしょうか? 私はある種の確信を持っているのですが、彼女の単色アイコンは、もっと別のところ、彼女自身の複雑な自意識に由来するもののように思われます。

 

 それを示すためには、TwitterとLINEにおけるアイコンの立ち位置を比較する必要があります。私には、単色アイコンをめぐっては「まさに文章を送信するその瞬間において、アイコンがどこにあるのか」が非常に大きな問題だと思われるのです。

 Twitterにおいて、私たちはツイートをするまさにそのとき、自身のアイコンと送信されるツイートを一緒に見ながら送信ボタンを押します。言うなれば、ひとはツイートをするとき、「このアイコン、このアカウントのもとで、私はこの発言をする」という署名をしていると言っていいでしょう。この署名は、承認の働きを、すなわち、アイコンとツイートが併置された画面を見て、その名のもとに[sub nomine]ツイートをしてよいと判断する働きを持ちます。

 この作用は必然的に、アカウントをパッケージングするものです。Twitterの運用は多かれ少なかれ(意識的であれ無意識的であれ)、このパッケージングを行う側面を持っていると指摘できるでしょう。複数のアカウントを「用途別に」運用するひとがいるように、容易にそのアイコンを変え、ハンドルネームを変え、ヘッダーを変えることができる。自身の名のもとにつぶやかれたツイートも、気に入らなければ剪定することができる。そうして、自身の意図した通りの全体性を持ったアカウントをパッケージできる。だからこそ、単色アイコン界隈というような、同じようなアイコンで同じような発言をするひとたち*2クラスターになることもできるし、あなたもお望みであれば、アカウントをしかるべく整えてそこに入っていくこともできる。

 ただ、このユーザーの意図した通りの全体性を持ったアカウントはそれゆえに、必然的に、ユーザー自身とは離れて強固な一貫性を持つようになることも指摘しておく必要があります。この文章を読んでいるひとのなかには、過去に「自分のキャラじゃないな」と思ってツイ消しをしたことがあるひともいるでしょう。しかしその「キャラ」はあなた自身のキャラクターでしょうか。それともあなたのTwitterアカウントのキャラクターでしょうか。

 ここで重要なのは、Twitterのアカウントはユーザーの意図した全体性を簡単に演出できる設計になっていますが、それを欲しているのは間違いなくユーザーの欲望だ、ということです。自身のキャラと違うからツイートをしない、あるいは一度ツイートした文章を削除する、というときの感情は、見られたい自身の姿を保とうとする欲望と、現実にはその通りの存在ではない自身とのあいだの葛藤であるはずでしょう。そうした虚栄心が、Twitterではわかりやすく存在すると言えると思います。そしてまた、アイコンはわかりやすくその象徴になっている。

 

 それに対してLINEでは、誰かと話すとき、自身のアイコンが表示されることはありません。自分がどう見えているのかについては、話している当の相手から端末の画面を見せてもらうか、スクリーンショットを送ってもらうかでもしない限りは見ることができません。

 加えて、LINEでは一般的に、ひとりごとは存在しません。誰かとの会話しか存在しないのです。もっといえば、特定の誰かとの対話しか、「あなた(たち)」との会話しか存在しない。ひとはそこでは、こうありたいと望む姿のみをとることはできませんし、するべきでもありません*3。ひととの会話のなかで、思いもよらない返信に狼狽したり、怒ったり、思わず笑ってしまったり、その場のノリで調子に乗ったり、寝ぼけたまま送信したり、そうした「あなた(たち)」とのあいだのクローズドな会話が行われるのがLINEだ、と言えるでしょう。そうした一時の感情によって紡がれる有機的な言葉は、こう見られたいという虚栄心とはおおよそ無縁なものです。しかしながら、ひととのあいだで交わされる、「こう見られたい」という意図の存在しない、気を抜いた自身の発言――ときに放言であったりしますが――は、振り返って見るとドキッとするものです。とくに、繰り返しになりますが、LINEではメッセージを送るそのときに自身のアイコンは見えません。LINEで文章を送ろうとするときに、「いま送ろうとしているこのメッセージは、このアイコンのもと、こういうふうに見られることになるだろう」ということまで気を回す人はおそらくいないでしょう。ここです。自分がどんな顔でメッセージを送っているか、自分だけが把握していない構造がLINEにはあります。もちろんLINEのアイコンも自らが設定したものではありますが、それはどこまでも過去の自分が設定したものに過ぎません。だからこそ、寝癖が立ったまま怒っているひととか、社会の窓が空いたまま偉そうにしているひとみたいな状況に近しいことが、LINEでは起こりうる。意図した一貫性を持たない自身の発言が、しかし自身の名のもとに、ひとつのアイコンのもとに集められてしまう窮屈さがある。

 樋口円香さんは、自身の振る舞いがどう見られうるかということについて、彼女なりに、非常に自覚的です(WING編からずっと、どう見られているか、どう見られたいのか、自身はほんとうはどうありたいのかは、彼女の、ひいてはノクチルの物語の根幹にあるものです)。だからこそ、自身がどう見られているのかを制御しきることはできないLINEの構造においては、彼女にとっては、単色アイコンが最善手だったのではないかと思うのです。

 

 たとえば、単色アイコンにする前の樋口円香さんを想像してみましょう。もしかしたらアイコンは自撮りだったかもしれないし、お気に入りの小物だったかもしれない。そのまましばらくやっていて、ノクチルの4人で買い物に出かけることになる。駅前で早く着いた小糸と珍しく早く着いた雛菜と待っていると、「と、透ちゃん、いま起きたって......!」といって、小糸がスマホの画面を、グループLINEで遅刻連絡をする透のメッセージを見せてくる。「浅倉......」とつぶやきながらも、目はそれ以外のところに釘付けになっている。なぜなら、前日夜にみんなで変なノリでしゃべっていたときの自身の発言が、透の遅刻連絡のひとつ上に残っているから。そうか、私はLINEではみんなにはこういうふうに見えているのか、としばし考える。

「円香ちゃん......?」と心配そうに聞いてくる小糸に、「浅倉、ジュース三本ね」「う、うんっ!」「やは〜」といった会話があって、翌日、樋口円香さんのアイコンは単色になっている。これです。

 樋口円香さんは単色アイコンをセンスがいいと思っているのか? 私は、防御姿勢として、一番地味で、何も語らない単色アイコンを選んだのではないかと思っています。ふと自身のアイコンに意識を巡らせたとき、笑顔で悲しい話をしていることも、キメたポーズの宣材写真でギャグを言っていることも、好きな小物に誰かへの怒りをしゃべらせることもないように。

 そう、まさに上の記事でも引用されている「私は娯楽のための見世物じゃない」という思考によって、彼女の単色アイコンは説明ができるのです。

 

 さて、まとめると私の主張も非常にシンプルで、「ふだん意識しないぶん、意識したときになんの感情も抱かないように単色アイコンにしている」がファイナルアンサーです。

 しかしここには別の袋小路があることも確かでしょう。LINEの単色アイコンが別種の自意識の発露であったとして、LINEのアイコンが単色の時点でそれ相応のキツさがあるのもまた確かだからです。しかも、一度「いちばんダメージが少なく済むように」という理由で単色アイコンに変えたのだとしたら、そこからまたもとに戻すのは、多大な労力を必要とすることでしょう。防御態勢としての単色アイコンから他のなにかに変えることは、すなわちあえて自身の弱点を晒すことであって、自意識との格闘に苛まれること必死ですし、もし小糸ちゃんに「円香ちゃん、アイコン変えたんだね......!」と言われたら、まず間違いなく舌をかんで死ぬでしょう。

 

 そして現在これを書いている筆者も、まったく同じ袋小路にもう何年も入り込んでいます*4。助けてくれ......小糸ちゃん............

 

 さて、いちばんキモいのが誰だったのかわかったところで、そろそろお別れの時間のようです。それでは......

マンモクスン

 

P.S.

トーンカーブをかけたアイコン

 ちなみに、トーンカーブをいじると彼女のアイコンは微妙に単色ではないことがわかります。

 その上にさらにバケツをかければ、微妙に横線の縞模様が入っていることがわかるでしょう。

 しかしこれはいったい何なのか。jpgで投稿されたことによる劣化の可能性もゼロではありませんが、まだ全貌は謎に包まれています。みなさんはどう思いますか?

*1:野暮なツッコミだが、仮にこの前提を認めたとしても、論理学の基礎中の基礎的な話として「"Twitterが単色アイコンの人" ならば "LINEも単色アイコンである"」からは、「"LINEが単色アイコンの人" ならばTwitterも単色アイコンである" 」は導けない。加えて言えば、後述の理由で、LINEが単色アイコンのひとはTwitterは単色アイコンにはしないと思う。個人的な感覚では、同記事に対する以下のツイートの方が頷ける。

https://twitter.com/Hals_SC/status/1532968651527098368

*2:特徴なるものを持ちうるのは、前提として、それがひとつの全体性をもっているからにほかならない。

*3:だからこそ私たちは、ひととの対話のなかでありたい自分の姿のみを押しつけるようなひとたちが、虚栄心に彩られたLINEの文章が、散々にインターネット上でネタにされているのを見てきたのではないでしょうか(おじさん構文であったり、どしたん話聞こか構文であったり......)。

*4:ちなみに部屋の壁を至近距離で撮って彩度などをいじったもの。

文体の舵をとれ 練習問題 第一章~第四章

私が主催して七月から牛歩の歩みで進んでいる文舵合評会で提出した文章のまとめです。

下の方に各文章についてのメモがあります。

 

第一章 自分の文のひびき

〈練習問題①〉文はうきうきと

問一

声に出して読むための語りの文を書いてみよう。

その際、オノマトペ、頭韻、繰り返し表現、リ ズムの効果、造語や自作の名称、方言など、ひびきとして効果があるものは何でも好きに使っていい――ただし脚韻や韻律は使用不可。

 

 坂を登った。大変だった。やたらと長いしガタガタのコンクリートはヒールと相性最悪で、靴擦れが痛いし太陽は変わらず殺そうとするように暑いし。途中塀の上に猫がいたからよかったものの、いなかったら相当危なかった。頂上間際の「止まれ」に「黙れ、ここで止まらない元気があるわけあるか」と愚痴りながらも、上についたら達成感と開放感で止まらず走り出しそうになって、そんな目の前をビュンと掠めた自動車にかなり肝を冷やした。交通標識には従いましょう。坂の途中の自販機で買ったミルクティーは、炎天下で、まずくはないけど強いて飲みたくもない温度になっていて、ただ、別にいいかと思い直す。そろそろ目的地に着くのだ。こんな坂道を登らせた張本人のお住まいに。この坂を登ってこさせるような優雅な性格なんだから、ガンガンに冷房を効かせて優雅に涼んでいるに違いない。冷たい水の2杯や3杯頼んだって文句はないはずだ。ジンジャーエールやビールを頼んじゃったっていいかもしれない。

[メモ]

 

 

問二

動きのある出来事をひとつ、もしくは強烈な感情(喜び・おそれ・悲しみなど)を抱いている人物をひとり描写してみよう。文章のリズムや流れで、自分が書いているもののリアリティを演出して体現させてみること。

 

 ぱっと光ったのは稲妻で、それは私たちを祝福するような光だった。
 あの頃、ゴロゴロと鳴る雷の光の隙間に二度三度四度と暗転する空が、ぴしぴしと窓を叩きつける雨がこわくて、私たちふたりは怯えてベッドのなかに隠れたものだった。うるさい雨がもたらすいっさいの沈黙には深い深い眠りの後のクラクラとする酩酊感覚のような落ち着きがあって、じめっとした漆喰の部屋に立ち込める土の匂いの背徳感が、逃げ込んだベッドのなかで握りしめた妹の手から私だけに伝わってくるようで、とにかく私はこの時間が好きだった。私は本当に雷を怖がっていたのだろうか。タオルケット一枚で隔てる薄暗闇は、この薄暗い寝室よりもさらにすこしだけ暗くて、それは私たちふたりのほんのすこしの秘密と同じだけの量だった。出口をふさいだかまくらのような、パイ生地をかぶせたタルトのような。まっしろなタオルケットのなかで見つめあって交わす言葉は異言めいていて、お互いの肩に触れる髪の毛はそのときもすこしだけ湿っていた。
「ねえ」
「どうしたの」
「夜は」
「もうすぐよ」
「昼は」
「まだそこにある」
「朝は――」
 ――――。
 ひときわ大きな光は音がしなかった。閃光がタオルケットに私たち二人の影を写しとる暗い部屋(カメラ・オブスキュラ)。空気を切り裂いて轟く音が、薄皮一枚のベールの内側に届くまでの永遠。それはどこまでも祝福だった。

[メモ]

 

第二章 句読点と文法

〈練習問題②〉ジョゼ・サラマーゴのつもりで

 一段落〜一ページ(三〇〇〜七〇〇文字)で、句読点のない語りを執筆すること(段落など他の区切りも使用禁止)。

トタン屋根の隙間から私のあらゆる肌の表面にむかって忍び込んでくるあの冬の寒さに身を縮こまらせることにも慣れたそのときを起点にして水を汲みにおりた家の裏手の井戸のそばで南から吹いた暖かな風が頬をやさしく撫でてあたたかな記憶と春という軽やかな生命の息吹を思い起こさせるまでのとてもとても長い時間のあいだにはすっかり忘れていて一度たりとも思い出すこともないはずの感覚たとえば夏のむっとして木々と土のにおいが混ざった湿度の高い流体のような空気を吸いこんでこの足や腕を引っぱる重力がいくぶん強くなったように感じる気分や汗でべっとりと肌にはりついてこの服ごとどうしてもこの季節からは逃れられないのだという感覚になるあの濡れた服の不快な感触といったものが急に思い起こされるとしたらそれは一般的にはそうした悪夢を見たとかそうした描写のある物語を読んだだとかなにかまったく外的な体験が必要になるわけでまさかそうした外的な契機を必要とせずに夏の暑さを冬まで思い続けてわざわざ冬に夏の気分の悪さを考え続けていたりあるいは夏に冬の気味の悪さを考えて続けていたとしたらとてもそのひとは正気とはみなされないのが社会通念というものなわけだけれど私の高校入学と同時に親元を離れ寮暮らしになって一年が過ぎたサファモアに至ってなお楽しいハイスクール生活とは裏腹に抱き続けた義理の両親に対する恨みという一言では表しきれない殺意という一言なら表しきるかもしれないさまざまな感情は日々大きくなることに関してとどまることを知らなかった

[メモ]

 

第三章

〈練習問題②〉長短どちらも

問一

一段落(二〇〇~三〇〇文字)の語りを、十五字前後の文を並べて執筆すること。不完全な断片文は使用不可。各文には主語(主部)と述語(述部)が必須。

[英語の主語+述語という主体と動詞の関係構造は、日本語にそのままで当てはまるものではないため、たとえばここでは、〈何〉について〈どう〉であるのか、のように主題を対象とする陳述・叙述が成立していればよいものとする]

 

割れた空はテレビの砂嵐のようだった。私は意識して短い呼吸を繰り返す。冴えていく身体に鼓動を感じる。つい、彷徨った手は腰へと伸びる。冷たい銃のグリップがよく手に馴染んだ。私はきっと大丈夫だ、と思う。むこうから彼女がやってくるのが見える。軽薄に笑って手を振っている。声は霧に溶けてこちらまでは届かない。今度はそのつもりで銃に触れる。私は何が「大丈夫」なのだろうか。私は殺せるか心配しているのだろうか? 彼女を殺せる自信はある。殺した後を心配しているのだろうか? 何を心配するというのだろうか。悩むことなど何もなかった。一気に撃鉄を起こし射撃する。銃弾は彼女までまっすぐに届く。けれどそれは当然のように当たらなかった。

[メモ]

 

 

問二

半~一ページの語りを、七〇〇文字に達するまで一文で執筆すること。

 

なんかダメになったので藍子を窓から投げ捨てたらそのままの勢いでバンジージャンプよろしく帰ってきたのが今年の二月だから、つまりはもう半年近くもこの藍子と生活していることになるわけで、でも、どこがダメになったのか思い出せないくらい藍子はいつも通りこの上なく見えるし、なんなら投げ捨てたこと自体夢だったりするのでは?(希望的観測)と藍子の背中を優雅にパタつく羽根の付け根のあたりをムニュイっと触ってみるとガムテで大幅に補強した跡がばっちり残ってたりして、やっぱり往復バンジー胡蝶の夢にあらずということなんだろうと一応の結論はついたわけだけれど、そもそも何がダメになって捨てたのかとかなんかほとんど忘れてるし、なんか覚えてない? とどこか不機嫌そうな張本人に聞いたらいや、ちゃんとおかしくなってるじゃないですかって華奢な指先で窓の方を指すものだから、聞いたのはあなたのことなんですけど〜とか思いつつ半開きの遮光カーテンをピシャッと開けて窓の外を眺めてみると、ちょっと古めでかわいい大きさの家々がゴタゴタ集まって遠い向こうには霞んだビルディングの見える変わり映えしない下町の景色が広がっていて、空にはでろりと真っ黒な太陽が浮かんでいて、やっぱりいつも通りの私の暮らす東京で、んー別におかしいところなんてないけどって振り返るとやっぱり藍子は不機嫌そうだしまた理由を聞いてもなんか曖昧な返事だし、そういう態度が私たちの関係をダメにしたんじゃないんですかどうなんですか! ってあっダメになってたのってもしかして私たちの関係? とか考えてたらそうではないとすぐに藍子に否定されてしまってそうなんだ〜と思ったけど結局なにがダメになったんだろう。 

[メモ]

 

 

〈練習問題③〉追加課題

問一

最初の課題で、執筆に作者自身の声やあらたまった声を用いたのなら、今度は同じ(または別の)題材について、口語らしい声や方言の声を試してみよう――登場人物が別の人物に語りかけるような調子で。
 あるいは先に口語調で書いていたなら、ちょっと手をゆるめて、もっと作者として距離をおいた書き方でやってみよう。

 

(1)

ゆっくりと、二度、腹を蹴った。湿ったうめき声が令からこぼれる。これでいいの、私の声に令は微かに頷く。これでいいらしかった。「気持ち悪いよ」と小さくつぶやく。狭い子供部屋にはそれでも十分響いた。置いたままの足裏から呼吸を感じる。令はかすかに微笑んでいた。とても、とっても満足そうな表情だった。それが私には気に食わなかった。心もち、右足に重心を傾ける。令はますます笑顔になっていく。足裏に伝わる体温が気持ち悪かった。どうしてこんなことをしてるのだろう。この状況は令の望んだものにすぎない。私は別に――別になんだろう。令はあたたかかった。ゆき、と咳混じりに名前を呼ばれる。やわらかな腹部は抵抗で固くなっていた。自分が気遣いを忘れていたことに驚く。思わず退けた足に、床は冷たかった。その動作を謝罪と取ったのだろう。ううん、と令はかぶりを振って。「ありがとう」そう言って薄く笑った。

[メモ]

 

(2)

確かに昨日の天気予告では大雨だった。それなのに空には雲ひとつない。憎たらしいほどに綺麗な青がまぶしい。アーシャは軽くため息をついた。こうなっては仕方がない。慎重に、慎重にベランダへの窓を開ける。天蓋の光はとっても肌に悪い。予告が外れたような日はとくに。ベランダの室音機を稼働させる。一秒と外に出ていたくはなかった。あわてて部屋のなかに戻る。室音機が緑穹片を消費する。こーん、と少しづつ音が反響する。430ヘルツの神聖な音が部屋に満ちて。アーシャはふうと軽くため息をついた。これはこれで選びとった生活なのだ。それにしても、と彼女は思う。人工太陽の下の暮らしは、楽ではない。

[メモ]

 

問二

 書いてみた長い文が、単に接続詞や読点でつないだだけで構文が簡単になっているなら、今度は変則的な節や言葉遣いをいくらか用いてみよう(ヘンリー・ジェイムズを参照のこと)。

  すでに試みたあとなら、ダーシなどを駆使してもっと〈ほとばしる〉文を書いてみよう――さあ、あふれ出させろ!

 

物語は夢から醒めたそのときから始まるんだ、そういって父親がちいさい俺の頭をなでていたとき、それを話していたのがいつもの自然公園の丘の上だったか、それとも夕食後のソファーの上だったか覚えてないんだが、とにかく俺は退屈していて、じぶんの手を――手の甲にまだ毛の一本も生えていないきれいな手を――何とはなしにくるくるひっくり返しながら眺めていたことだけは覚えていて、それ以外のこと、そのときの父親はお気に入りなのに休日にしかかけない細いフレームの丸眼鏡をかけていたのかどうかも、数ヶ月伸ばしていい感じになってきたらなぜか毎回そこでさっぱりと剃ってしまっていたあごひげがその日はどうなっていたのかも、父親らしくゴツゴツとした手はちいさな俺の肩をかれのほうに優しく引き寄せていたのかも、その言葉はなにかほんとうらしいことをいおうとする人間に特有の神妙な顔つきで発せられていたのかも覚えていないのに、大きくなったじぶんの手を、ささくれだって張りのなくなった乾いた手を見るたびに、どうしてかその父親の言葉を――物語は夢から醒めたそのときから始まるんだ――思い出し、いつだって、耳元で残響するその言葉はこれ以上ないほんとうらしさにあふれていて、俺にあるひとつの問いを突きつけていた――つまり、「物語はもう始まっているのか」という問いを。

[メモ]

 

 

第四章 繰り返し表現

問一:語句の反復使用

段落(三〇〇文字)の語りを執筆し、そのうちで名詞や動詞または形容詞を、少なくとも三回繰り返すこと(ただし目立つ語に限定し、助詞などの目立たない後は不可)。(これは講座中の執筆に適した練習問題だ。声に出して読む前に、繰り返しの言葉を口にしないように。耳で聞いて、みんなにわかるかな?)

 

太陽が溶けていく。世界が朱に溶けていく。規律を失った屋上のフェンスたちは、逆光に染まって大量の朱いバツ印を光らせていた。空へとまっすぐに背を伸ばして生徒たちを守る役目も忘れて、屋上の内側と外側とを隔てる美徳も放棄して。君がそのフェンスをがしゃりと掴む。風はぬるかった。朱が混ざり込んだぬるい風が私の肌をすこし溶かしていた。さようなら。最後にそこにいる君にだけは伝えかったのかもしれない言葉は、それすら開いていく距離感のなかに溶けて届かない。落ちていく加速度。もうずっと前から探しつづけていたような、喉の奥を塞ぐ孤独のなかに確かに存在する大切な思い出に意識を溶かして。朱い朱い地面に肢体を手放した。

[メモ]

 

問二:構成上の反復

 語りを短く(七〇〇~二〇〇〇字)執筆するが、そこではまず何か発言や行為があってから、そのあとそのエコーや繰り返しとして何らかの発言や行為を(おおむね別の文脈なり別の人なり別の規模で)出すこと。
 やりたいのなら物語として完結させてもいいし、語りの断片でもいい。

 

 からん、ころん。

 夕暮れに染まる店内にドアチャイムが軽やかな音をたてる。

 私はいったん手を止めて、軽く一房にしたエゾムラサキをやさしく取りわけた。薄紫の花弁がくるりと俯く。ここ数年の「流行り」で、老脈男女年齢問わず、贈答花としてひときわ人気になったかわいらしい花。品種改良や栽培法で一年中育てられるようになったその花は、当然、私の営む生花店でも年中切らすことなく仕入れていた。いまやってきたお客さんも、この短命の多年草を買いに来たのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

 背の高いミモザの陰から姿を現したひとに声をかける。入店からまっすぐカウンターまで来るお客さんは、おおよそほしいものが決まっているか、聞いた方が早いと思っているか、とにかく、声をかけたからといって店を離れるタイプではないことは確かだ。

 やってきたのは利発そうな少女だった。

「本日はどなたへの花を?」

 無音。一拍おいて、目をきらきらと輝かせて。

「は、はじめましてっ!」

「はい?」

 まじまじと少女の顔を見てしまう。花屋の店員に話しかけるにはおよそ似つかわしくない挨拶をしてきた彼女は、なんというか輝いていた。目とか。表情とか。顔の前であわせた細い指先の薄ピンクのネイルとか。

 はじめまして、のとおり、私とこの少女は初対面のはずだった。

「あの、えーっと、は、はじめまして」

「あー、すみません、いきなり……」

 癖なのだろう、目線は私から外さずに、少女はさらさらとした後れ毛をその白い手でくるくると巻きとりながら。

「わたしサラっていいます。お茶でもしませんか、お姉さん?」

 さらりと私に言ってのけた。

 

 燻したコーヒーと柔らかなバターの香り。シックな窓辺には私の仕立てた網籠のフラワーポット。道路をはさんで真向かいにあるこの喫茶店は私の花業のお得意様で、私もここのフレンチローストのお得意様なのだった。

 窓ぎわの瀟洒なテーブルに、ふたりぶんのティーカップが並ぶ。

 よくこんなことしてるの、そう聞いた私にサラはまさか、と言って小さく笑った。

「はじめてなんです。見た瞬間に、こう、ビビッと来てしまって」

 この出会いは運命に違いない、そういう直観が働いたのだという。ふつうに話しかけたら、店員と客の関係から始まってしまう。けれど彼女はこの運命を私とすぐに分かち合いたくて、だから焦りながらも適切な言葉を探した結果、出てきたのが「はじめまして」だったのだ、と。

「まだこの街に来てすぐなんです。夕暮れ時でも活気のある商店街ってなんだかめずらしくて。それに、どこか懐かしくて。あ、わかりますか? ふふ、ぶらぶらしていたらあなたのお店の前を通りかかったんです。そこでなにかが私のなかで引っかかって、ふらりと立ち寄ったんですよ。店先のお花だったか、入口のドア飾りかなにかだったか、あなたに出会ったから忘れちゃったんですけど。だから——」

 サラは一瞬窓の外へ伸ばした視線を私の方へ向けると、軽く身を乗り出して囁いた。

「いまいちばん知りたいのは、お姉さんの名前なんです。教えていただけますか?」

 

 

 それから閉店時間を過ぎてマスターに追い出されるまで、私たちはほんとうにたくさんの話をした。たとえば、嫌いなものについて。自分ではあまり気に入っていない、私の名前について。許せる虫とそうでない虫について。伝えたい言葉が思い出せないときの絶望について。流行り病について。たとえば、好きなものについて。好きな紅茶と、それにいちばん合うお茶請けについて。自分の前に手にとられたのが何年前かもわからないような、書庫の奥から借りた本を広げたときのにおいについて。長旅から帰ってきたときの安心感と、ちょっとだけ残る寂しさについて。

 サラの作戦はまったくもって成功で、このお茶会は私たちの関係を一足飛びに特別なものに——ただの花屋とお客の関係ではないものに——するにはじゅうぶんだった。

 長く短い時間のなかで、私とサラの考え方は同じ場所を目指す旅びとのように非常に近しいもので、お互いの趣味の違いはそれぞれを補い合うかのように感じられた。

「ほんとうに、月と太陽と地球が一直線に並んだみたいな偶然」

 笑いながら言ったサラのジョークに私も笑ってしまったけれど、私たちはたしかにこの偶然に、特別な関係になれたのだった。理由はいらなかったし、もし必要とあればいくらでも挙げることができた。

 

 

 そして私とサラが一緒になってから季節がひととおり巡ったころ、サラは発症した。

 

 

 ベッドに細長く差し込む明け方の光に、サラはわずかに眩しそうに目を開いた。

 ゆっくりと身体を起こして、不思議そうにまわりを見渡す。早朝の静けさに白く沈む病室の壁を、そしてベッドの脇にすわる私を。窓際に置かれたエゾムラサキの意味に気づいたのだろうか。サラはすこし目を見開いて、私の顔を見る。

 私の心は驚くほどに凪いでいた。何も終わってなどいないことへの、これからも続いていく時間への確信ゆえだろうか。そう、たとえ忘れられても。けれど、これがひとつの始まりでもあることは確かだった。だから、

「はじめまして、サラ」

「はじめまして! ええと、お名前をお伺いしてもいいでしょうか?」

 私はすこし好きになった自分の名前を口にする。

 いいお名前ですね。そういってサラはやさしく微笑む。

 薄紫の花弁がくるりと俯いた。

[メモ]

 

 

 

 

 

メモ

 

第一章

〈練習問題①〉

問一[本文へ戻る]

・合評会では、読点のすくないだらだらっとした語りが進み続けている視点人物の描写と噛み合ってテンポのよさにつながっているのだが、それが心理描写で遮られている、といった指摘があった(大意)。たとえば、「交通標識には従いましょう。」とか「ただ、別にいいかと思い直す。」みたいなところは別にいらないのでは、という。

・書いたときにはぐちぐちと歩いているが小気味よい、みたいな饒舌さをねらっていたのだと思うが、たしかに指摘の通り、立ち止まって考えてしまっているような箇所はその流れが淀んでしまっている 。自分では気づけない指摘で、たしかに~となった。

・「初回だし締切には間に合わせないと......」と思って非常に急いで書いたので、このなかではいちばん納得のいっていない文章でもある。合評会初回の時点で私以外のみんなが締切を守らなかったため、それ以降は締切厳守で急ぐことはあんまりなくなったというあまりよくない後日談がある(自分はだいたいは締切守ってますが......)。

 

問二[本文へ戻る]

・一瞬の永遠を過去時制で語るタイプの雨の日姉妹百合。問一よりも先に書いていたので、文舵をはじめていちばん最初に書いて提出した文章になる。書いたときには気に入って、合評会の後にツイートしたりしていた。

・最後の段落を書いているとき、「映写機? 輪転機?」と入れたい単語のニュアンス逆引き連想ゲームをしていて、カメラ・オブスキュラが思い浮かんだときにはかなりテンションが上りました。ちょうど暗い部屋の話なので。

・合評会でも割合好評だった。外の雷(光)と内側の暗闇の対比をもっと明示的に示唆するべきでは、といった指摘もあり、もし入れるとしたら......は悩みどころ。雷雨の屋外は電気のついていないような室内よりは明るいけれど、けっしてわかりやすく対比できるほどの明るさではなく、かといって対比として描いている以上は......

 

第二章

〈練習問題②〉[本文へ戻る]

・読みやすい、という感想と読みづらい、という感想が両方あった。これは一文(大きな主部と述部のあいだ)に複数の修飾部をつけて、それぞれをひたすら伸ばしていくような書き方に起因していると思う。文法的にいえば破綻がなくつながっている文章にはなっていて、それに対して、この課題の実作のなかでは読みやすかった感想ももらえたんだろうと思う。一方で、このやたらと長い修飾部が悪さをして読みづらい、というのも非常にわかる。

・内面を描写した前半と環境や外的な面を書いた後半に飛躍があって、この逆説がうまく接続されていないように思う、という指摘もあった。書きながら自分でも思っていたので、これはまったくそのとおりだと思いますね......

 

 

第三章

〈練習問題③〉
問一[本文へ戻る]

・リ❍リコか? という指摘はなかった。合評会の掟が守られている......(『文体の舵をとれ』巻末の合評会のルールが書かれた箇所に、「〇〇を思い出した」などど言わないように、という記述がある)

・課題をかなり厳密に守って、15字プラスマイナス2文字に納めるように書いた。なので書いている側としてはパズルをしているような感覚があり、あまり文章そのものとしては面白みがないのでは? という気持ちもあったのだが、合評会ではけっこう好評だった。制約があるなかでも、文章として続きが気になる感じに書かれている、過不足なくどういう情景なのかが伝わってくる、など。なるほど。

・厳密に課題を守ることで、リズムにどうしても起伏がなくなってしまう感覚があったため、〈練習問題③〉追加課題の問一「ゆっくりと、~」の文章では、課題を意識しつつも意識しすぎないように書いてみた。けど、それについてはまたあとで。

 

問二[本文へ戻る]

・いちおう某作家の文体模写のつもり。問一よりも面白く書けた感覚があったのだけど、「読みづらい」「何が言いたいのかわからない」と大不評だった。ショック。

・私のなかでの試みとしては、第二章の練習問題②とはまったく別の書き方をしている。練習問題②では、主部と述部のあいだをひたすら延ばしていく、という書き方なので、端的に言えば「さまざまな感情はとどまることを知らなかった」で、あとはすべてそれへの修飾とわけてしまってよい。

・それに対して、今回の文章では、ひとつの文のなかに複数の動詞を入れてガンガン時間を動かしていく、という書き方をとっている。なので、「〇〇が✕✕した」と要約するのが不可能になっていて、それが「何が言いたいのかわからない」みたいな感想にもつながっているのだと思う(という話を合評会でもした)。

文体模写元の作家がそういう書き方をしていて、意図的に一文の始まり方と終わり方での平仄をあわせていない、「この文はこの始まり方でこの出口に抜けていくの!?」みたいなスリリングな読書体験をできてしまったりする。

・それを取り入れてみたつもりではあるのだけど、さすがにもとの作家も一文が700字に及ぶまで長くしたりはしていない。加えて、かなり短い文も混ぜたりとリズム感を非常に意識していて、その絶妙なバランス感覚がその作家の文章を読むときの稀有な読み心地につながっている。私の方ではたぶん失敗している。メリハリが大事ってこと。

 

〈練習問題③〉追加課題

問一

(1)[本文へ戻る]

・モチーフとして、レガスピさんの「殺伐百合小説集」に影響を受けて書いたものです。私の性癖ではありません、念のため。

・読んだのが半年くらい前だったのでキャラクター名などは忘れていたのですが、いま確認したら「殺伐百合小説集」収録「腹パン百合」の登場人物のひとりが「れい」なので、被ってしまっていますね。こいつは、失敬。オマージュということで、なんとかなりますか?(終了画面選手権)

・さきに書いたとおり、「令はあたたかかった」が9文字でいちばん短く(-6)、多いので18文字(+3)と、前回の問一よりも「十五字前後」の課題をゆるく取って書いた。そのぶん、リズムとして自然で、前回ほどぶつ切りにはなっていない、という感想を合評会ではいただいた。

・断片文が複数あって、それは書きながら目をつぶっていたけれどあえなく指摘された。

 

(2)[本文へ戻る]

・参加者が非常に少ない会だったので(ふたりだった)、数合わせにもうひとつと提出したもの。こっちはぶつ切りっぽさが残っている。

・造語を多用してますが、まあこんな感じの話だろう、という推測は立つ程度には意味不明にはなっていない、とのことで、安心しました。

 

問二[本文へ戻る]

英語圏の某作家を意識しているので、翻訳調です。日本語としては、文体模写とまではいかないものの、漢字の閉じ開きはとある好きな作家のものに基本的に準じています。

・けっこう気に入っているものの、課題に準じて700字は書くべきところを560字くらいで収まってしまった。700字に増やすとしたら......と考えるとバランスが崩れそうで難しい。合評会では「覚えていないこと」の描写の比重が大きすぎかもしれない、という指摘もあり、成熟する前後の自身の手の描写をあまり覚えていない父親の存在と重ねて書くのであれば、たしかにもうすこし手の描写などをしたほうがよかったかもしれない。

 

第四章

〈練習問題④〉

問一[本文へ戻る]

・「朱」と「溶ける」の二語を繰り返した。それぞれの指示対象が変わることで効果的な繰り返しが違和感になっていない、という評価で、よかったです。

・「屋上」「生徒」「フェンス」、あとは後半の描写で飛び降り自殺をする(女子)生徒を書いたものと理解できる情報は提示したつもりだったが、合評会では具体的な描写の少なさには説明不足を感じたとする声が多かった。あと、ほとんど描写のない「君」は要素として必要なのか、みたいな。

・一方で表現についてはかなり反応がよく、たとえば「それすら開いていく距離感のなかに溶けて届かない」という文がいい、といってくれたひとがいたものの、いま振り返ると練習問題②の問一の「声は霧に溶けてこちらまでは届かない」と似たような修辞表現になっていて、引き出しの少なさが露呈してしまっている感じであまりよくないな~と思う。

・さいしょは『雫』の有名なシーンみたいな、溶鉱炉みたく赤い空、学校の屋上、という風景が書きたいというスタートで、主人公に対する「君」のほうが飛び降りたりする予定でした。ただ、書いている途中で主人公側が飛び降りている話にできることに気づき、同時にnyanyannyaさんのShutterという大好きな曲をオマージュした内容にできると気付き、書いていた「赤」を「朱」に変えたり、歌詞の一部(「落ちていく加速度」)を引用したりしました。直接の反映はされていないものの、後半部分については、同じくnyanyannyaさん作詞作曲の「LIAR」という曲の歌詞とか、『TФЯMЗИT』という小説を見ながら書いた影響が出ています。

www.nicovideo.jp

 

問二[本文へ戻る]

・愛するひとの記憶を失う病気が「流行って」いて、それゆえに愛するひとにエゾムラサキ=勿忘草を贈ることが流行になっている世界でのガール・ミーツ・ガールです。フォゲットミーノットとか勿忘草って書くと直截的すぎてあけすけだし使いたくない、という気持ちでエゾムラサキに。そういう世界であれば、忌み名みたいな風習として、本来の花の名前(勿忘草とかフォゲットミーノットとか)ではなく、むしろエゾムラサキみたいなあまり使われてない名前でこの花が呼ばれるようになるのでは、みたいな考えもあります。

・「はじめまして」を二回繰り返すことってそうないよな、と思ったので選んだものの、合評会では、この言葉だけの繰り返しだと構成上の反復として弱いのでは、という意見もあった。

・「薄紫の花弁がくるりと俯く」を最初と最後で反復していたり、あともうひとつ、意味上の反復になっている箇所があったりします。そういうことではないらしい。

・「え......短編小説とか書いたことないんですけど.......」と思いながら書いた。