cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

おいしいカルボナーラの作り方

 突然だが、「おいしいカルボナーラ」を想像してみてほしい。おそらく以下のような条件が当てはまっているはずだ。

・湯気が立っている

・パスタである

・それにはおおよそ卵・生クリーム・チーズなどからなるソースで味付けがされていて、ベーコンや、もしかしたらソーセージなどが入っている

・胡椒がかかっている

 さて、下二つには個人差があるかもしれないが、おいしいカルボナーラと聞いて人が思い浮かべるものには大体上記のような性質があるはずだ。
 それならば、こういう結論を導き出すことができるかもしれない。すなわち、

 

「人類に共通の『普遍的においしいカルボナーラ』という概念が存在し、人間はそれを作ることができる」

 

 これはカルボナーラに限ったことではなく、少なくとも食べ物、調理された物全般について言えることではないだろうか。しかしながら料理全般に広げると話が大きくなりすぎてしまうので、ここではカルボナーラを一例として論を進めよう。

 まず、人間がおいしいと感じるために必要なものは何か。当たり前だが、まず脳である。これがないと認識も成立しないから成り立たない。そして、味覚受容体。これは人間には味蕾が相当する。舌がないと料理の味は感じられない。当たり前だが重要なことだ。化学感覚として味覚と近しい関係にある嗅覚も必要だ。香りによって料理の味が良くなると認識することもその逆もままある。こと食べ物の味において、消化器官などについては考えなくていいだろう。

 おいしさを感じるファクタとして三つを挙げた。脳、味覚、嗅覚である。ここでの味覚、嗅覚は感覚器官の段階であって、脳による最終的な認識(情動)とは区別していることに留意したい。

 例えば「何を食べてもおいしいと感じるように脳をいじられた状態」の人に食べさせたカルボナーラは、どんなものであってもその人にとってはおいしいカルボナーラであるかもしれないが、普遍的においしいとは言えないだろう。同様に、脳にどうにかして直接「おいしさ」を感じさせるカルボナーラがあったとして、それが「カルボナーラとして」普遍的においしいカルボナーラたり得ているといえるかというと難しい。普遍的においしいカルボナーラは脳に直接作用させた結果としてではなく、味覚と嗅覚によって誰にとってもおいしいと知覚されるものでなくてはならない。

 しかし、こうも考えることができる。「何を食べてもおいしいと感じることができないように脳をいじられた状態」の人に食べさせたカルボナーラはどうあってもおいしいと知覚されない。この状態はひどく限定的なものだが、これと似た状態になっていない人間の存在を否定できるだろうか。そうして敷衍させていくと、我々は人類が共通して同じものから同じ味を認識できるということを無意識のうちに前提にしていたことに気付く。味覚障碍者の人だって存在する。味覚障害でない人、という風に括ったとしても好き嫌いは存在するじゃないか。そういえば自分はつぶあん派なのに友達のアイツはこしあん派だったなあ。この前行った丸亀で七味を尋常じゃない量かけているおじいさんがいたっけなあ。

 つまり「普遍的においしい」カルボナーラは、結局脳の状態によっておいしくないと判断されうるし、味覚や嗅覚が局所的におかしい場合も同様である。どこかおかしい人がそのおいしさを認識できないだけ、とも言えそうだが、そうなると「普遍的においしい」という定義が怪しくなってくる。「人類に共通の『普遍的においしいカルボナーラ』という概念」は幻想であった。このままではいつまで経ってもおいしいカルボナーラは作れない。

 こう反論する声もあるかもしれない。

「自分は一流のシェフが食べたとてもおいしいカルボナーラを食べたことがある。あれは誰が食べてもおいしいという筈だ!」

 しかしこれも反論むなしく、人類が共通の味覚を持っているという驕りに基づいている。普遍的なおいしさなど存在しない。我々は最初に帰ってこう言い直す必要があったのだ。

 

「わたしはわたしがおいしいと思うカルボナーラを作ることができるよ」

 

 普遍的なおいしさという概念は幻想であった。しかし、おいしいカルボナーラは少なくとも存在するはずだ。一流のシェフが作ったカルボナーラをおいしいと感じた様に。だがこのおいしさとは自分の手の届く範囲以上に広がると一気にあやふやで曖昧なものになる。自分は自分の味覚について自覚があるから、自分が食べているものをおいしいと思っていることを理解できる。しかし、他人についてはせいぜいあれがおいしいこれがおいしいと言っていることを外から観測することができる程度で、予測以上のものは立てられない。様々なものを食べているところを見、食べ物に向ける趣味嗜好を聞き、データを積み重ねたうえでやっとこう言うことができる程度だ。

「ぼくは多分君がおいしいと思ってくれるカルボナーラを作ることができるよ」

 しかし、人間が同じ生物種である以上、ある程度の味覚上の好みというものは存在するし、それが同じ食文化圏なら尚更言えるだろうことは否定しがたい。系統樹的には遠く離れた昆虫でさえ甘味や低濃度の塩には嗜好性を示すし、苦みや高濃度の塩には嫌悪を抱く。シェフが職業として成り立つのもそれを傍証しているだろう。

 つまりは、「最大多数がおいしいと感じるカルボナーラは存在し、それは誰かが作ることができる」。こう言い換えてもいい。カルボナーラは今まで不特定多数の誰かが作ってきたから概念として存在するのであり、それらすべてをデータとして見比べ、全世界の人の味覚的嗜好性と照らし合わせたときに「最も多くの人においしいと感じさせるカルボナーラ」は確かに存在するだろう。これを便宜上「世界一おいしいカルボナーラ」と呼ぼう。

 さて、私の目の前には二つの選択肢がある。すなわち、「わたしがおいしいと思うカルボナーラを作る」という選択肢と、「世界一おいしいカルボナーラを作る」という選択肢だ。後者はもちろんバーチャルな世界一であり、そこに漸近することを目指して作ることにはなるが、それは前者の場合であっても程度はあれ変わらないことだ。

 「私」にとって、「世界一おいしいカルボナーラ」が私の味覚に合うものであるかは不確定である。それに、世界一おいしいカルボナーラが世界一おいしいかは私には確かめようがない。観念論的に私=世界だとすると「わたしがおいしいと思うカルボナーラ」と「世界一おいしいカルボナーラ」は同一の存在となるが、この場合の「世界一」は最大多数のものにとっての世界一だからだ。その最大多数に自分が含まれているかは定かではない。それゆえ、私が目指すべきなのは「わたしがおいしいと思うカルボナーラ」だろう。

 しかし、私から出発して考えてみると、「わたしがおいしいと思うカルボナーラ」は「わたしと味の好みが似ている人がおいしいと思うカルボナーラ」に、ひいては「わたしと同じ食文化圏の人がおいしいと思うカルボナーラ」にまで拡張しうる。食文化圏という壁はあるだろうが、「私」から出発したカルボナーラは有限とはいえ広大な広がりを持つことができるポテンシャルを秘めているのだ。

 私は私のおいしいと思えるカルボナーラを作ろう。そう思って再びもう一つの壁に突き当たる。「カルボナーラ」とは何だろうか。最後に黒胡椒を振らなかったらカルボナーラではないだろうか。ベーコンがなかったら、はたまたソーセージだったらカルボナーラではないのだろうか。醤油やコンソメを少量入れて和風なテイストに仕立ててみたらカルボナーラではないのだろうか。これはカルボナーラを定義していないことから起きる問題であり、カルボナーラを定義してしまえば解決する。この文章の最初に挙げたような条件によって。黒胡椒を振り忘れたカルボナーラは「黒胡椒を振り忘れたカルボナーラ」になるし、ベーコンをソーセージで代用したカルボナーラは「ベーコンをソーセージで代用したカルボナーラ」と呼称できる。

 ようやく準備が整った。これで私はついにおいしいカルボナーラを幾分の心の迷いなく作ることができる。作るのに必要なのは、脳、視覚(調理する際に必要。目をつむっても作れるのなら不要)、味覚受容体(味見に必要。味見をしないのなら不要)、嗅覚(材料の状態を確認するのに必要。買ってすぐのものしか使わないなら不要)、肌(温度受容器。温度を頼りにせず作れるなら不要)、材料や調理器具を扱える腕、フライパンや鍋等の調理器具、スパゲティ(適量)、卵(適量)、チーズ(適量)、生クリーム(適量、本場では使わないらしい)、ブロックベーコン(適量)、黒胡椒(適量)、バター(適量)、あとはお好みで。食文化圏によって大体の味覚嗜好性は似たり寄ったりになるとはいえ、最終的な味の好みは個々人の認識によるため、自分の好きな味とそれを実現できる術を身に着けていることは当然必要である。これはトライアルアンドエラーによって、または料理に関して情報を集めること(例:クックパッド)によってしか手に入らないので注意が必要である。これは釈尊が生まれてからすぐカルボナーラを作ったという逸話が存在しないことからも明らかで、無から有はよほどのことがない限り生まれない。また、当然だが、いい食材を使ったほうがおいしいものができる。

 おいしいカルボナーラとは何か。自分が納得しておいしいと思えるカルボナーラである。そして、今まで食べた中で一番おいしいと感じるカルボナーラを作れたら、それは自分にとって世界一おいしいカルボナーラである。おいしいカルボナーラ像は個々人の内面に存在するものだが、それは現実に一対一の関係で対応するものではなく、可動性をもって広がりうる。将来、「まだ食べたことはないけれど、今まで食べたカルボナーラよりもおいしいと感じるカルボナーラ」を食べることがあるかもしれない。「世界一おいしいカルボナーラ」を常に未来にあるものと置いて永遠にそれを求め続けてみるのもまた、いい料理人の心構えといえるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

補足

大昔に書いた文章なのでネタとはいえ結構粗があったり全体的に軽薄だなと思いつつ、これはこれで味があるのでほとんどそのままです