cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

そこには

 社会があるのだろうか。物語があるのだろうか。

 ひとが何某かのストーリーに基づいてしかあらゆるものを認識できず、したがってすべての問題は物語とその信仰へと帰されるのであれば。すべては物語だ、ということになる。

 たとえば、私たちはなんだかよくわからないこの「世界」に放り込まれて、日々あくせくと生きている。この場所はどうやら社会と言ったりするらしい。私たちは人間と分類される生き物で、同じ言葉をしゃべったり、違う言葉をしゃべったりするんだけど、みんな同じ種類なんだって。

「だって、見ればわかるでしょう?」

 視覚は雄弁だ。けれど、見たいものを見られているかどうかはわからない。言葉も世界なるものも生まれたときから存在するし、言葉に文法が存在するように、「これはこう見るもの」というものの見方はあらかじめ大体きまっている。そこにある風車は、少なくとも巨人には見えない。私たちは、世界に生きているというよりは、物語のなかに生きている。

「世界って何?」

「まず、創造主さまがいてね」

「違うよ、最初にビッグバンっていうのがあって......」

 まず最初になにかが存在して、そこからこうなって......。ひとはたいてい「なぜ?」と聞かれたとき、まず原初的な何かを想定して(あるいは創造して)、そこから説明しようとする。大前提とゆるやかな因果関係から紡がれる物語。もっぱら人びとにとって、創世記もビッグバン宇宙論も、信仰対象の物語としては大差ない。

 しかし「世界って何?」は「なぜ?」ではない。「なぜ世界が存在するのか」と「この世界は何ものなのか」は、およそ別の問いだ。いっさいの物語を抜きにしても、あらゆる説明に先だって、この「今」は存在する。この「今」のある場所は何ものなのだろうか。便宜上、それに与えられた名前がこの「世界」なのだとすれば、それは空虚な型のひとつ、中身のない物語にすぎないということになる。けれども、事実の総体かもしれないし、私そのもののことかもしれないし、というふうにその中身を補填しようと、人びとの共通認識として語られるなかで、「それ」は物語のかたちを帯びてくる。共通の理解のかたちを探り当てようとすることは、共通の物語をつくりあげることであり、他者にむけて開かれた行為だ。物語は伝播する。ひとは物語のなかでしか生きられないだけではなく、物語をつくり、また物語を求める。

 人びとが「世界」という物語のなかにしか生きられないのであれば、「現実」という言葉にも再考の余地が浮びあがる。通常思われているように、物語が真にその奥に存在する「現実」を覆い隠しているのではない。 物語、、 まさに、、、 私たち、、、 現実、、 そのもの、、、、 組織、、 している、、、、 。人間がこの世界に存在せずに生きることができないように、人びとはなんらの物語も分有せずに生きることはできない。何かを見るとき、聞くとき、語るとき、つねにすでに私たちは物語と共にある。ひとつひとつの物語が現実をつくりあげる。

 この強固な物語の作用は、それゆえに連帯を、また排他をも生み出す。各々の拠って立つ「現実」はそれぞれの物語のなかで組織されていて、その幾多の物語は取捨選択が不可能なレベルに内面化されている。ふたつ以上の現実に同時に依拠することはできない人びとにとって「現実」はひとつであるべきで、相互に矛盾する「現実」があれば、どちらかが誤りということになる。どちらの「現実」に拠っているかは、わかりやすく連帯のしるしになるし、わかりやすく敵対のしるしにもなる。

「あのひとたち、何を言っているんだろうね?」

「現実を見てないんだろうな、一種の集団幻想だよ」

 お互いの物語の差異のなかで、現実と幻想の二分法が用意され、それは私たちの生きるこの世界の強固な基盤として働いてくれる。正常と異常の二項対立をつくりあげ、自らの信仰する物語を前者として、向こう側に幻想を置くことで、人びとはようやく安心してこの「世界」に安住することができる。

 けれども、まったくの現実というものがあるとすれば、それはまさに物語という象徴秩序の網の目を破って出てくる、物語にけっして回収されることはないなにものかだろう。想像を絶するような、直視することは到底耐えられないような理不尽な何か。得てして人びとはそうした〈出来事〉を「物語」にすることで理解可能な/記述可能なものにして領有し、安心してしまうものなのだが。

「現実を見なさい、まあそこには物語しかないんだけど」

 

 

 

 

補足

この文章は完全なQ体さんの「社会と物語、存在と寂しさ」(https://note.com/torchfish_story/n/n77c6f2478512)あるいはその改訂前の文章である「呪詛・物語・社会」(http://circlecrash.hatenablog.com/entry/2017/12/07/235910)に触発されて書いた文章です。

ただ、内容的には直接の関係はないため、もちろん独立して読むことができます(もしいまそう読んでいただけたのであれば、その通りに)。