(※その知名度に鑑み不要かもしれないが、この文章では『アクロイド殺し』の犯人および『アクロイドを殺したのはだれか』においてピエール・バイヤールが指摘する「真犯人」の名前は明かさない。)
はじめに
アクロイドを殺したのはだれか? この問いが挑発的になりうるのは、その答えがあまりに自明なものだからである。アガサ・クリスティーの代表作のひとつ、『アクロイド殺し』における犯人は、広く物語そのものを超えた知名度を持っている。ともすれば、適当な和製ミステリーを数冊読んでいたらどこかでネタバレを喰らった、というケースも珍しくはないだろう(私も昔喰らった記憶がある)。
本書が試みるのは、そのあまりに自明とされてきた犯人——作中でエルキュール・ポワロが指摘する犯人ではない「真犯人」を指摘することである。推理小説を丹念に読み直すことで、作中の真実を超えた別の真実を浮かび上がらせる、その挑発的な試みはたしかに試みとして面白い。けれどもその指摘は、またその議論、手続きは果たして妥当なものだろうか?
「応用文学」を標榜する著者ピエール・バイヤールが拠って立つ素振りを見せるのは、ひとつにはフロイトの精神分析であり、もうひとつは物語論である。けれど本書を注意深く読めばわかるように、アカデミックな議論を装ったほとんどの議論は単なるレトリックにとどまった底が浅いものか、レトリックとしても破綻しているか、議論自体が破綻しているかのいずれかである。精神分析も物語論も有効に扱われているとは言い難い。著者がパリ第八大学の教授であるとか、ル・モンドが絶賛しているだとかいった前評判に思わず本書を称賛してしまう前に、私たちは丁寧にこの本を読み直し、その議論の誤りを指摘してみる必要がある。読んだことのない本について堂々と語ることよりも、読んだことのある本を正当に評価することの方がよっぽど私たちにとって価値のあることだろう。
第三章の検討:レトリックの失敗
本書は「捜査」「反捜査」「妄想」「真実」の四つの章で構成されている。前半の二章、ポワロの推理を点検しつつクリスティの諸作品における構造を整理する「捜査」、クリスティの特定の作品と並べつつ『アクロイド殺し』におけるポワロの推理の不備を指摘する「反捜査」は丹念な内在的読解とスリリングな指摘によって読者を楽しませてくれるものの、アカデミックな装いを提示してくる第三章「妄想」はその必要性がほとんど疑わしい。
「妄想Delusion」の概念を導入して、それがとりわけフロイトの精神分析においてどのような地位を占めてきたかを数十ページかけて延々と語ることで導き出されるのは、驚くべきことに、「現実と妄想は厳密には区別をつけることができない」という、それを言うだけであれば引用元はデカルトでも誰でもいい使い古されたクリシェと、テクストの読解はテクストそのものではない「中間的世界」を形成する創造的作業である、というこれまた(書かれた時期を考慮しても)真新しさのない話に過ぎない。「テクストの読解には権利上幅がありうる(読者のつくる中間的世界はそれぞれ異なりうる)し、どの読解が正当かは自明ではない」という程度の内容にそれだけのページ数を使う必要はない(この俗流ポスト構造主義的相対主義の枠をひとつも出ない主張自体については、ここでは否定はしないでおく)。
また、仮にこのページ数が妥当だったとしたところで、そこから導き出す彼の議論が妥当なものかどうかも疑わしい。この第三章を締めくくる以下の文章は、彼の議論の有効性を判断するうえで非常に有意義なものだろう。
[...]作品テクストと読者のあいだに中間的世界が存在するということがほんとうなら、アクロイド殺しの犯人はそこに逃げ込んだのではないか、そして彼は、作品が書かれて以来、そこで密かに暮らしているのではないかと考えられるからである。彼の生活のうわべの平穏さは、いまや終焉を迎えようとしている。(p.194)
このレトリックは完全に破綻している。著者自身による説明を反復すれば、中間的世界は私たちが文学作品を読むことによって作り出す世界であって、それ以上でもそれ以下でもない。したがって、これまで一般的な読者によって作成されてきた中間的世界においては、作中で指示される犯人以外は存在しない。なぜなら、その中間的世界というのは作中で指摘される犯人こそが「真犯人」であるような世界だからである。しかしながら、著者が用いたレトリックでは、テクストに施される各々の解釈によってそれぞれに立ち現れる中間的世界を実体化し、再びある種の「テクスト」としてしまっている。そうでなければ、犯人が「中間的世界に逃げ込む」などというレトリックは成立し得ない。仮に著者のバイヤールが第三章で整理した概念を有効に活用するのであれば、言えるのはせいぜい「テクストの奥に隠れた真犯人がまさに現れる中間的世界を描き出す」といった程度だろう。第四章の「創造的読解」によって真犯人の指摘を行う作業も、まさにこの中間的世界の創造にほかならないのだから。
このレトリックの失敗を取り上げたのは、たんなる揚げ足取りがしたいからではない。レトリックはあくまで比喩の次元の作業であるとはいえ、「レトリックが自身の議論に対して大きく的を外している」という事態が意味するのは、自身の為した議論について著者自身が明瞭に理解できていないということだからである。バイヤールはかなりの部分において、この種の「自分が何を書いてどのような議論の枠組みで論じているのか」に無頓着である、あるいはよく理解できていないように思われる。これは「真犯人」の指摘を行う第四章においてより顕著なものになる。
第四章の検討:「真実」は真実を描けているのか?
たとえば第四章の第一節では、『カーテン』におけるポワロの助手ヘイスティングズによる「嘘」を起点に「推理小説の世界では、全員が嘘つきであり、絶対的な真実などありえないのである」として、推理小説が複数的読解に読者を誘う構造を持っていると結論づける(p.213)*1。しかしながら、「複数的読解に道を開く」構造は、語るという行為そのものが本質的に持ちうるものであり、推理小説に、あるいはフィクションに固有のものではない。語るという行為は主観的にしかあり得ず、語りの構造には省略・歪曲・誤認がつきまとう。そしてそれゆえに、推理小説以外のフィクション、あるいは自伝やドキュメンタリーのようなノンフィクションにおいても、この語りによる省略・歪曲・誤認は発生しうる。「意図的な省略」も「意図しない真実の隠蔽」もひとつのテクストとしては読者に対して等価であり区別がつかないからこそ、批評家による創造的読解が成立しうるし、ノンフィクションの皮を被ったプロパガンダが批判されうる。この「語ること」そのものへの分析は行わず、クリスティーの作品読解から推理小説固有の性質へと敷衍させるバイヤールの手つきは、「あのヘイスティングズでさえも嘘をつきうるのだから」を論拠とする、あまりに弱い主張に留まっている。この結論を引き出すために、そもそも『カーテン』を引いて論じる必要などあったのだろうか?
犯人の指摘においても、アクロバティックな言いがかりは散見される。バイヤールはポワロも驚きの手法――心理学的要素で犯人足り得ない人物を容疑者候補から排除する。「犯人は明らかに決然とした性格の持主で、[...]殺人の計画から実行までに一日も要しなかったというその行動の素早さからは、冷徹、無慈悲で、自分に自信のある人物が想像される。[...]これらの心理学的要素は犯人を特定する人は不十分だが、これによって[...]といった影の薄い人物を被疑者のリストから削除することができる」(p.218)――こんな方法で犯人を特定する推理小説があったら、あなたは納得できるだろうか? とりわけ「周囲からは軽く見られているが実は賢い」といった人物が犯人であることも往々にして存在するクリスティー作品において、この推理はいささかの説得力もない(もっと問題なのは、まさにそうしたトリックが使われているクリスティー作品について、第一章で名前を挙げてその欺きの手法の解説までしていることなのだが)。
また、真犯人の指摘にあたって、該当犯人は「その秘められた重要性から、当然、作者アガサ・クリスティーの代弁者でもある」とし、「そして、創造の観点からいえば、クリスティーこそがロジャー・アクロイドを抹殺した張本人である」とアナロジカルに「真犯人」が殺人者の地位にあることを指し示す(p.245f)。しかしながら、この議論は誰にでも使うことができてしまう循環論法に過ぎない。「特定の人物Aは(何某かの理由で)重要な存在である」「重要な存在であるAは作者の代弁者とみなすことができる」「作者は物語の創造者として被害者を殺した犯人である」「だからこそ作者の似姿であるAは真犯人なのである」。ここでは、該当人物が重要である何某かの理由さえもっともらしくつければ、誰でも真犯人にすることができてしまう。少なくともこのようなレトリックで信憑性の増す推理というものは、存在しない。
おわりに
ここまでの指摘は、本書における真犯人の指摘がまったく無効なものであることは意味しない。バイヤールの指摘自体が面白さを持ちうること、それが作品自体にもたらしうる奥行きについて、私は否定するつもりはない。
それよりも私が指摘したかったのは、彼がその主張をなにかアカデミックに正当性をもつものであると見せかける、その不当さにある。
真面目に読む限り、精神分析は犯人の特定に(レトリックの範囲においてさえも)なんら実効的な成果を上げていないし、精神分析の知見としてなにか新しいことが述べられているわけでもない。第三章はまったく必要ないように見えるし、クリスティーの作品分析とロジカルな真犯人の指摘のみに議論を絞れば半分のページ数で足りただろう。
訳者あとがきに記載があるように、バイヤールがあえてポワロ同様に「妄想として」穴のある議論をしている、という読解――あるいは擁護は、たしかに十分に成立するものではある。しかしながら、仮にそうであれば何だというのだろうか? 「真剣に書いて/書かれていない」ということが著者へのあるいは著作への批判の逃げ道になりうるのだとしたら、私たちはそのような本に付き合う必要はまったくないだろう。真剣に取り合う必要がないとあらかじめ宣言された本に対してできることがあるとすれば、最初から買わず、読まず、もっといい本を探して読むといったことになる。たしかに批評は、学問的厳密性と遊び心とのバランス感覚のうえに成り立つものではある。しかしながら、このバランスを欠いた「遊び心」が意味するのは、結局のところ批評の不誠実以外のなにものでもないのだから。
*1:この議論自体、正当性は極めて疑わしい。バイヤールはヘイスティングズが偽の信念から為した(いわゆる操りの構図における)行為をもって、その錯誤を理由としてヘイスティングズが嘘つきであるとする。この議論の筋の悪さは、偽の信念から無意識のうちに誤った発言や行為をしうる(嘘をつきうる)という原理的な話を、嘘つきという言葉で行為者に帰責させるばかりか、それをテクストの持ちうる属性として語るところに起因している。「嘘」は一般的に、発話者が意図的に自身の信念に背く発言をすることで相手に偽の信念を持たせようとするものである。バイヤールのように、本人が知らずに誤ったことを言う/してしまうことまで嘘に含めた場合、「錯誤」「誤認」「無意識的行為」といったものと「嘘」との区別は本質的につかなくなってしまう。そしてこの錯誤可能性は当然、(文学)テクストに固有の問題ではない。テクストと“現実”の区別がついていないのだろうか?