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La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

点、線、死線、マシンガン――北野武『ソナチネ』について

※映画の視聴を前提に書かれています。

 

 緊張と弛緩、不発、遊戯としての発砲。『ソナチネ』において多く挟まれる「点としての死」のモチーフは、少しずつ毒が回っていき体が思うように動かなくなるような、そうした緩やかに死へと向かっていくことを予期させる役割を担っている。澱のように積もった死の感覚は、死をあまりに身近なものにする。点としての死は日常における非日常であり、日常へと回帰する弾性力のようなものをもっている。遊びとしてのロシアンルーレットにおける「不発」や落とし穴といった「ちょっとした死(まがい物の死)」は、むしろ死なずにいる今の生を思い起こさせるような面があり、死への接近は(往々にして臨死体験がスピリチュアルな生の称揚と結びつくように)生への刺激としての作用もある。しかし使い続けたばねがその元に戻ろうとする効果を失ってしまうように、ちょっとした死に対して慣れすぎてしまうと、そのすぐ先にある本当の死に対してまでも無感動になってしまう。作中に「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだよ」という印象的な台詞があるが、村川は死ぬのを怖がりすぎて死にたくなって死んだのではない。自らの今生きている生にあまりにも死が馴染みすぎたために、死と生の境界が無感動なまでに曖昧になり、それ故に死んだのである。

 とすれば一見衝撃にも思えるラストの村川(北野武)の自殺は突然のものであった訳ではない。それを一番象徴しているのは、村川と幸が試し撃ちをし、その後北島組・阿南組の会合を襲う際に使われることになったマシンガンだろう。

 マシンガンは「試し撃ち」をすることはあれど、それは「本番」が想定されるからこそ成り立つものであって、本来の使用方法=(大量)殺人を常に前提とした銃器といえる。マシンガンには投げられたフリスビーを撃ったりロシアンルーレットに使ったりといった「遊戯」としての使用法は存在せず、あくまでも「殺す」ための使用法だけがある。加えてその発射間隔の短さにも注目するべきだろう。拳銃は一発一発が点として存在しているが、マシンガンの発射間隔の短さは点と点の連続性があり、ここには連続としての死が存在する。連続としての死とはつまり本物の死に他ならず、遊びにも使えうるような拳銃のちょっとした死とは区別されうるものだ。使用する武器を拳銃からマシンガンにシームレスに移行した村川は、その時点で生と死の境界を超えていたのである。

 正面から最後に村川がカメラに捉えられるのは、最終盤に彼がマシンガンを放つシーンだ。そこでは、絶え間なく撃たれるマシンガンの発光は断続的な光ではなく、ほとんど連続的な光として存在する(映画のフレーム数も相まって理念的な連続的な光を画面の上において完成させていると言えるだろう)。この連続的な光を外から見て良二は目を見開き、逃げ帰る。しかしこの光を発生させる当の主体であり、その場でその光がもたらす多くの死を直視している村川は全くの無表情なのである。この死への馴化は結末での自殺を先取りしている。

 最後に本作における舞台の構造についても確認しておこう。「本州→沖縄→本州」という場所の移動があった『3-4X10月』は、本州という戻るべき日常に対して非日常としての沖縄があるという二層構造になっていた(さらにメタ的な構造にもなってはいたが)。それがソナチネにおいては「本州→沖縄(都心部)→沖縄の片田舎→沖縄(都心部)」と、アジール的な意味合いを果たした沖縄の片田舎も入った三層構造になっていることにも注目する必要がある。本来のミッションであれば本州から沖縄に行って戻ってくるという二層だけの関係において主人公たちの行動は完結する予定であった。それが沖縄の都心部から片田舎へ逃げ潜伏するという行動を取ることによって第三の層が物語に登場したことで、3-4X10月であれば「本州から沖縄に行って戻ってくる」で済んでいた「行きて帰りし物語」の型は、「沖縄の都心部から片田舎へ行きまた都心部に戻りラストの銃撃戦をする」と、沖縄の中においても行われているのである。しかしそうであれば本来「沖縄の片田舎から都心部へ」と「沖縄の都心部から本州へ」という2ステップで「日常」へと戻ってこなければならないはずだが、村川においては前者しか回帰は行われない。しかもその回帰においてなされたのは「死」そのものの場としての銃撃戦であり、村川においては「戻るべき日常への回帰」の一部としての回帰ではなかった(良二は「沖縄の片田舎から都心部への回帰」と「上記の銃撃戦からの逃避」において2ステップの回帰は行われており、これは良二だけは日常へと戻れたことを示している)。沖縄の都心部から本州への道中でではなく、また片田舎の拠点へと向かう道すがらで村川が自殺したことにも、日常への回帰の不可能性という村川の死への膠着が示されているのである。(2020/12/6)