cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

点、線、死線、マシンガン――北野武『ソナチネ』について

※映画の視聴を前提に書かれています。

 

 緊張と弛緩、不発、遊戯としての発砲。『ソナチネ』において多く挟まれる「点としての死」のモチーフは、少しずつ毒が回っていき体が思うように動かなくなるような、そうした緩やかに死へと向かっていくことを予期させる役割を担っている。澱のように積もった死の感覚は、死をあまりに身近なものにする。点としての死は日常における非日常であり、日常へと回帰する弾性力のようなものをもっている。遊びとしてのロシアンルーレットにおける「不発」や落とし穴といった「ちょっとした死(まがい物の死)」は、むしろ死なずにいる今の生を思い起こさせるような面があり、死への接近は(往々にして臨死体験がスピリチュアルな生の称揚と結びつくように)生への刺激としての作用もある。しかし使い続けたばねがその元に戻ろうとする効果を失ってしまうように、ちょっとした死に対して慣れすぎてしまうと、そのすぐ先にある本当の死に対してまでも無感動になってしまう。作中に「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだよ」という印象的な台詞があるが、村川は死ぬのを怖がりすぎて死にたくなって死んだのではない。自らの今生きている生にあまりにも死が馴染みすぎたために、死と生の境界が無感動なまでに曖昧になり、それ故に死んだのである。

 とすれば一見衝撃にも思えるラストの村川(北野武)の自殺は突然のものであった訳ではない。それを一番象徴しているのは、村川と幸が試し撃ちをし、その後北島組・阿南組の会合を襲う際に使われることになったマシンガンだろう。

 マシンガンは「試し撃ち」をすることはあれど、それは「本番」が想定されるからこそ成り立つものであって、本来の使用方法=(大量)殺人を常に前提とした銃器といえる。マシンガンには投げられたフリスビーを撃ったりロシアンルーレットに使ったりといった「遊戯」としての使用法は存在せず、あくまでも「殺す」ための使用法だけがある。加えてその発射間隔の短さにも注目するべきだろう。拳銃は一発一発が点として存在しているが、マシンガンの発射間隔の短さは点と点の連続性があり、ここには連続としての死が存在する。連続としての死とはつまり本物の死に他ならず、遊びにも使えうるような拳銃のちょっとした死とは区別されうるものだ。使用する武器を拳銃からマシンガンにシームレスに移行した村川は、その時点で生と死の境界を超えていたのである。

 正面から最後に村川がカメラに捉えられるのは、最終盤に彼がマシンガンを放つシーンだ。そこでは、絶え間なく撃たれるマシンガンの発光は断続的な光ではなく、ほとんど連続的な光として存在する(映画のフレーム数も相まって理念的な連続的な光を画面の上において完成させていると言えるだろう)。この連続的な光を外から見て良二は目を見開き、逃げ帰る。しかしこの光を発生させる当の主体であり、その場でその光がもたらす多くの死を直視している村川は全くの無表情なのである。この死への馴化は結末での自殺を先取りしている。

 最後に本作における舞台の構造についても確認しておこう。「本州→沖縄→本州」という場所の移動があった『3-4X10月』は、本州という戻るべき日常に対して非日常としての沖縄があるという二層構造になっていた(さらにメタ的な構造にもなってはいたが)。それがソナチネにおいては「本州→沖縄(都心部)→沖縄の片田舎→沖縄(都心部)」と、アジール的な意味合いを果たした沖縄の片田舎も入った三層構造になっていることにも注目する必要がある。本来のミッションであれば本州から沖縄に行って戻ってくるという二層だけの関係において主人公たちの行動は完結する予定であった。それが沖縄の都心部から片田舎へ逃げ潜伏するという行動を取ることによって第三の層が物語に登場したことで、3-4X10月であれば「本州から沖縄に行って戻ってくる」で済んでいた「行きて帰りし物語」の型は、「沖縄の都心部から片田舎へ行きまた都心部に戻りラストの銃撃戦をする」と、沖縄の中においても行われているのである。しかしそうであれば本来「沖縄の片田舎から都心部へ」と「沖縄の都心部から本州へ」という2ステップで「日常」へと戻ってこなければならないはずだが、村川においては前者しか回帰は行われない。しかもその回帰においてなされたのは「死」そのものの場としての銃撃戦であり、村川においては「戻るべき日常への回帰」の一部としての回帰ではなかった(良二は「沖縄の片田舎から都心部への回帰」と「上記の銃撃戦からの逃避」において2ステップの回帰は行われており、これは良二だけは日常へと戻れたことを示している)。沖縄の都心部から本州への道中でではなく、また片田舎の拠点へと向かう道すがらで村川が自殺したことにも、日常への回帰の不可能性という村川の死への膠着が示されているのである。(2020/12/6)

文体の舵をとれ 〈練習問題⑦〉視点(POV)(ノクチル)問二・問三

四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

 

※問一(円香視点・透視点)は→こちら

 

問二:遠隔型の語り手

 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。

 

 少女たちの二曲目の演奏が終わって、講堂に観客たちの拍手がぱらぱらと響く。演奏した四人の少女たちの表情にも、観客の表情にも、納得や満足といった類の感情は見受けられない。講堂はすぐに静まり返る。先頭でギターを演奏していた少女が、後ろをふりかえって二言三言なにかを話す。ピアノを演奏していた少女が、何か突拍子もないことを言われたかのような相槌を打って、ドラムを叩いていた少女が重ねて何かを言う。ひそやかな、けれど楽しそうな雰囲気をもったその会話で、少女たちのなかで何かが決まったようだった。
 ベースの少女とギターの少女が目を合わせて、軽く頷きあう。一拍おいて、ギターが先行して三曲目のイントロを奏ではじめる。三小節目でほかの楽器も一気に流れ込んで、講堂をふたたび音が満たしていく。一生懸命に、そして楽しそうに演奏する少女たちには、さきほどまでの緊張は見られなかった。のびのびと紡がれる音が、声が、ひとつの全体〈アンサンブル〉をかたちづくってゆく。バスドラムが振動する。彼女たちの汗がステージに落ちる。キーボードの打鍵音が四人のあいだを反響する。ベースのシールドがステージの上を波打つ。ギターの振動が、彼女たちの声が、真空管を通して室内を拡散する。その壁を突き抜けて、どこまでも遠くに響き渡ろうとするように。
 演奏が終わって頭を下げる少女たちに、ぱらぱらと拍手が響き渡る。けっして大歓声には届かないものの、たしかに伝わったことを教えるような、そうした拍手を浴びながら、少女たちは、いまにも笑い出しそうな笑顔をたたえている。

 

 

問三:傍観の語り手

 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

 

 二曲目の演奏が終わって、周囲からぱちぱちと拍手が上がる。それに釣られるようにして、私も軽く両手を叩いた。このライブ、いつまで続くのかな、などと考えながら。
 ――きれいな子たちだな。それが最初の印象だった。
 例によって私たちには当日に知らされた慰問ライブにやってきたのは、楽器を携えた四人の女の子たちだった。
「えー、ノクチルっていいます。これから演奏をして、歌います。……あー、アイドル、やってます。ふだんは」
 たぶんリーダーなんだろう女の子がそういって、さっそく演奏の準備をしはじめる。マイペースに準備を進める少女たちを眺めながら、さっきの女の子はなんていう名前なのだろう、などと考えていたらいつの間にか準備は終わっていた。自己紹介の最後、きっと無意識につけたされたのだろう「ふだんは」に引っかかりを感じつつ、始まった演奏を聞いてすぐに理解した。初心者の演奏だった。
 二曲目が終わって彼女たちが小休憩に入る。このライブ、早く終わらないかな。無意識にそう考えていた。初心者なんだろうし、緊張もあるのだろうけれど、演奏はバラバラだった。焦りが表情に、演奏に出ていた。彼女たちがきれいな子たちであることを差し引いても、見ていて楽しいものでは、あまりなかった。
 彼女たちがなにか話しているのがわずかに聞こえてくる。内容までは聞こえない。けれど、楽しそうな雰囲気が、講堂の床をはずんでにわかに広がってゆく。自己紹介をしたギターの女の子がこちらを振り返る。それからすこし俯いて、目を伏せて、歌うように。ピックが弦をはじいて、新しい音があふれ出す。三曲目が始まった。
 ――何があったのだろう。演奏を聴きながら思う。さっきまでの演奏とは全然違っていた。息があっている。音がのびのびとしている。声が――そう、楽しそうにしている。魔法がかかったように、全員の音がぴったりとあっていた。軽やかに紡がれるギターの豊かな倍音が、ハイハットの弾んだリズムが、柔らかなピアノの三和音が、慎重に全体を支えるベースの低音が、きれいに混ざりあって、ひとつの音楽になっている。彼女たちの歌になっている。
 ああ、四人とも仲がいいんだな。ふと納得する。お互いに目配せをしながら楽しそうに演奏をする彼女たちは、私たち観客を見ているようで、どこか内側へ向いた密やかな遊びのようで。彼女たちのもつ絶妙な雰囲気に魅了されながら、私はいつの間にか、ギターの少女の歌うような演奏に釘付けになっていた。きっと楽譜通りではあり得ない演奏、定番を外れたコードにカッティングとアルペジオの緩急、思いつきのように挟まるフィルインは彼女自身のセンスなんだろう。けれどそれは四人の演奏のなかできれいに調和して、同時にどこまでも自由だった。
「ありがとうございましたー。」
 すべての演奏が終わり、そういって軽く頭を下げた彼女たちは、そそくさと撤収の準備を始めた。一瞬、顔を上げたギターの彼女と目があったような感覚になる。そのきれいな瞳は、いったいこれからどんなにたくさんの世界を目にすることになるのだろう。私はきっと知ることはできないけれど、それを知りたいと思う。彼女はどんな未来を、音を紡いでいくのだろう。
 ――けっきょく最後まで名前はわからなかったけれど。いま、彼女は間違いなくアイドルで、私はそのファンのひとりだった。

 

 

メモ

・問二は〈壁にとまったハエ〉のPOVを書く課題。ただ安直に誰でもない客観的な視点で書こうとすると、たんなるト書きになってしまう危険性がある。最初は多少悩んだものの、どこに注目して何を記述するかで、十分に迸らせることができることがわかった。

・たとえば「バスドラムが振動する(中略)」のあたりの箇所など、楽器の音そのもの(がどのようなものか)を記述してもよかったのだが、キーボードの打鍵音だとか、音そのものではなくそれに付随する音ともいえない音とかを書くことによって中心で鳴っているはずの音を外堀から記述するような、そういう多少トリッキーなことも試してみた。

・壁にとまったハエである以上、その視点は彼女たちの名前も知らないはずだろう、ということで固有名詞を使わなかったのだが、さっきの音以外の音みたいな話もそうだけど、そういう「外側だけを書くことで内側を書く」みたいなことがこの視点で書く面白さに繋がってくるのだろうと思う。

・合評会では「固有名詞が使われていないことで、二次創作が二次創作でなくなっているような感覚があって、そこが面白い」みたいな感想をもらい、面白い感想だなと思った。

・問三は「プロデューサー視点で書くと思った? 残念! 観客の囚人A視点でした!」みたいな感じ。けっこう筆が乗って書くのにはあまり困らなかった。

・少女たちが(アイドルとして)ライブを成功させる話でもあり、ひとりの人間がひとりのアイドルのファンになる話、でもあり、という感じに、これまでとはまったく別の視点から語り直しながら上手くまとめられたような気がします。

・合評会ではこの問三で書いた文章について、構成も褒めてもらえたのでよかったです。

・問四は落としました

文体の舵をとれ 〈練習問題⑦〉視点(POV)(ノクチル)問一

四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

 

問一:①

 ささやかながらしっかりした音響のステージはやたらと照明が眩しかった。なんとか2曲めが終わってまばらに響く拍手は空虚で、それでもアイドルがたかだか数ヶ月でなんとか様にした演奏にしてはお釣りが必要かもしれないと円香は思う。雛菜、ドラム走りすぎ。小糸は特殊な人前での演奏に完全に萎縮してるし、透は――自由に演奏し過ぎで誰ともあってない。

 女子刑務所の慰問ライブ。以前にテレビの企画でバンド演奏に取り組んで、曲がりなりにも弾けるようになったんだから活かせる仕事を、というのがプロデューサーの建前。それで取ってきた仕事がこれだったのにはあらゆるセンスを疑ったが、まあいまさらだ。

 マイクスタンドを片手で持ったまま、一歩前にいた透が円香たちのほうを振り返った。「いいね、ちゃんと聴いてくれてるし、みんな。思ったより。」「えっ、う、うん……!」「あは~、そうかもですね~?」刑務官に囲まれて無表情に聞いてる観客に透が好感触を感じてるのはよくわからないけど。たしかに、みんなが円香たちをみていた。

 じゃあ、といって前を向いた透が足でリズムを取りはじめる。透のギターがひとりアルペジオを奏でて、三小節目で小糸のキーボードが、雛菜のドラムが、円香のベースが一気に合流する。タイミングはばっちりだった。いつもベースを聴くように言ってるのに透のギターで始まるときだけ雛菜のテンポがジャストなのは癪だけど。四人で弾けるように編曲したアレンジは講堂を軽やかに音で満たしていく。いつだって僕らは。円香は自分の歌うパート以外は基本ルート音を取ることに徹して、周りに注意を向ける。緊張もほぐれたのか、小糸がオクターブで柔らかなピアノを奏でながらアイコンタクトに笑顔で返してくる。雛菜も肩の力が抜けてリズムにも乱れがない。思いつきでリハモされる透のコードに小節頭でベースのルート音を強調しながら、円香は音を紡ぎ、歌を紡ぐ。ひとつひとつの音がパズルみたいにつながっていって、「私たち」の歌になる。響け、響け。

 演奏の余韻のあと、まばらな拍手にありがとうございましたと頭を下げながら、演奏で火照った身体に、これは達成感と呼べる感情かもしれない、と円香は思った。

 

問一:②

 ぎゅーん、だだだん。だん。ぱちぱちぱちぱち。

 透たちの2曲めの演奏が終わって、控えめな拍手が中くらいの大きさの講堂に響く。私たちの学校の体育館の半分くらいかな。音はつるつるの床で反響して、そんなに力んで演奏しなくてもそこそこよく鳴ってくれる。一音一音が多少ミスっても、そんなに恥ずかしくならないくらいには。ありがとうございまーす。そういって軽く礼をして、透は振り返る。

 面白そうじゃん、刑務所。行ったことないし。「あ、あったら大変だよ……!」といっている小糸ちゃんはちょっと青ざめていて、そんなに怖いのかな、と透は思う。だって、みんなひとだし。たしかに悪いひとかもしれないけど……「透先輩はいいひとですもんね~?」「何の話……」――まあ、とプロデューサーが手を叩く。楽しんできてくれればいい。そんなふうなことをいって、いつもみたいに笑う。

 みんなが透を見ていた。「いいね、ちゃんと聴いてくれてるし、みんな。思ったより。」「えっ、う、うん……!」「あは~、そうかもですね~?」みんなの顔がちょっと明るくなった気がする。樋口と目があう。透はこの瞳が、やれやれ、なのか、そうかもね、なのかわからない。あとで聞こう、このライブが終わったら。というか、成功させたら。

 ネックの背に手を滑らせる。息を軽く吸う。ピックが振動を透に伝える。キャビネットから増幅された音があふれ出る。歌なんだ、唐突に透は思う。このギターの一音一音も、――樋口たちの演奏が入ってくる――このみんなの一音一音も。雛菜のドラムもさっきよりも元気だし、小糸ちゃんの指も軽やかに動いてる。いいね。樋口がさっきからちょっと睨んでる気がするけど。コード間違えたかな。それでも、なめらかに四人の音が重なり合う。私たちの音だ。もし「希望の音」というものがあったとしたら――透は思う。その音はきっと、息のぴったりあった音なのだろう。

 ――ま、まあ、失敗してもほら、口コミとかで悪評が広まったりはしないからな! なんてプロデューサーは言って樋口に怒られてたけど。見てよ、透はギターをかき鳴らす。広めてほしい。私たちはここにいるって。言ってほしい。私たちがここにいたって。もっと遠くまでこの音が響いて、どこか遠くまでこの声が聞かれて。そうして――

 ありがとうございましたー。深々と頭を下げる。刑務官がカーテンを開いていって、少しづつ外の光が差し込んでくる。その光がどうにも眩しく見えるのは、きっとうす暗い部屋に慣れていたからというばかりではないのだろう。薄く目を細めながら、そう透は思う。

 

 

メモ

・課題を見ながら悩んでいたらノクチルがバンドを演奏してたら......嬉しい! と急に湧いてきたのでこんな感じに。ル=グウィンも二次創作しちゃだめとは言ってないしね。うちの合評会ではOKとしています(ただ、自分がやるのは練習問題②の問一でリコリコの二次創作をして以来ですね)。今年はじめて書いた文章がこれということで、幸先がいい。
 ちなみに書きはじめる前にざっくりメモを書いてたんだけど、↓これだけでした。ざっくりすぎる。

バンドやってるノクチル

透 ギター

円香 ベース

雛菜 ドラム

小糸 キーボード

 昨日のシャニ5thのライブ、私は見てなかったのですがノクチルがバンド演奏をしていて楽器の担当がこれとおんなじだったらしく、解釈が一致してよかったです。当然透はギターとして、円香はベースだし、雛菜はドラムだし、小糸ちゃんはキーボードなんだよな......

・私の文舵サーバーではなんか音楽の演奏シーンだったり音楽についてを実作で書いて提出する人が多いので、自分も演奏シーンの描写ははじめてながら書いてみたかたち。とくに不自然にはなってはないとのことで、よかったです。三人称で書くのも2回目か3回目くらいだけど、そろそろ慣れてきたのではないでしょうか。

・合評会では「オタクが好きなやつをやってんな~と思った」的なことを言われた。はい...... 楽しんでもらえたみたいでそれはよかった。最初の始まる箇所と終わる箇所を揃えて、あいだで回想するところもだいたい同じ出来事を回想しつつ、どう感じたかで文章が変わってくるような書き方をしたんだけど、回想の比重がそこそこ大きいので同じ出来事を共有してるといえるのか?、といった指摘もあった。難しい。

・円香と透で文体はかなり変えられた感じがあり(そこもいい感じの評価をもらえた)、いままで文舵で書いたものとも文体をそこそこ変えられたと思うのでよかったです。締切時間を間違えてて、透のほうは1時間半くらいで書いたのかな?(私にしては早いほう) 楽しいと筆が進みますね。そういえば透のほうは全部現在時制のみで書いていますが、某作品のリスペクトです。

・「ま、まあ、失敗してもほら、口コミとかで悪評が広まったりはしないからな!」というシャニPの台詞について、いくらシャニPでもこんな最悪ジョークは言わないと思う、というシャニP解釈に対する指摘があった。焦って変にフォローしようとして追い詰められたシャニPだとこのくらいのことは口走りそう、と思ったのだけど、シャニPごめんな......倫理観を信じきれないばっかりに.......

・(さらに雑談)これを書いたのは2月末から3月頭くらいなのだけど、円香のほうを書き終わったあとにYoutubeを見てたらこの動画(雛菜がいつだって僕らはのドラム演奏をしてるMMD)を見つけて、とにかくこだわりの塊みたいな精度にびっくりしてしまった。 

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しかもトレスでもモーションキャプチャでもなく手打ちとのことで、執念が凄まじい。さらに驚いたのは、このひとがネルドラP(亞北ネルにドラムを演奏させるP)だったということ。亞北ネルといえばドラム、というイメージを作ったひとの作品に令和にまた偶然出会うことになるとは......(亞北ネル自体、名前を知ってる人はいまじゃ少ないでしょうけれど......)

 明日ハ素晴ラシのMVでも亞北ネルさんがドラムを叩いてますからね。という感じで、今年もゆっくり文舵も頑張っていきたいと思います......(途中からの参加者も募集中です)

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文体の舵をとれ 〈練習問題⑥〉老女

今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。
一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

 

一作品目:一人称、現在時制のみ
 こすり合わせた指にぬめり気を感じる。ひび割れた肌を冷たい水が刺す。たるんだ皮膚、骨張った指先、それらの白に混ざり込むように、深く皺に入り込んだ赤。はやる心臓を落ち着かせるように、念入りに、念入りに手を洗う。指をこする。それでも水の流れを肌に感じていると、少しづつ心が落ちついていくのを感じる。いつから、冷静になるために手を洗うことを覚えたのだろう。思い出したように、ふと、顔をあげて鏡を見る。
 昔の自分が映っている。まだ若かった自分が映っている。きめ細かで弾力のある手のひらを、伸ばして整えた爪を、静脈が綺麗に見える血色のいい手の甲を、流れる水に浸している。いま手を洗っているのは、前回のデートの教訓だ。ほんとうに、今日子ったら酷いんだから! 私を赤面させるようなことを臆面もなく言っておいて、私が頭を冷やそうと、駆け込んだ公衆トイレの洗面所で思わず顔を洗ったらメイクが落ちちゃって、それをあんなに笑うなんて! ねえ、理子、女の子はデート中顔は洗っちゃだめなんだ。化粧直しの時間がないならね。手を洗うといい。そう笑いながら言われた言葉をいま実行しているのは、きょうもまた今日子が変なことを言うからで。思い出して、また顔が赤くなりそうになる。もう、平静に見えるよね? 小さくそういって鏡を覗き込む。
 鏡には老いた私が映っている。目もとを腫らして、手を洗っている。とうに手は冷たくなって、もうすぐ芯まで冷えて痛みに変わろうとするところなのに、いまだに汚れは落ちない。果たして落ちていいのかもわからない。
 ——どうして手を洗ってるの。
 今日子にそう聞かれたことがある。新婚初夜に、同じこの洗面所で。深みのある、あの優しい声色で。視線を上げる。鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから抱きしめられる。重さを、熱を、息遣いを感じる。鼓動を感じる。やわらかな声は私の心臓に直接、さっき交わした約束をいつか、守れなくても大丈夫だと伝えているように思えて、
 ——そんなことないよ。
 力強く、声に出す。いつかそのときが来たら、きっと私はあなたを。
 鏡を見る。今日子と目が合う。絡み合う視線のなかに、遠い未来の約束をする。しっかりと、固く手を結ぶ。
 鏡を見る。私ひとりが映っている。約束を果たして、遠い過去の記憶を辿っている。最後の涙が頬をつたってシンクに落ちた頃にはもう、流れつづける水は、私の手から彼女の血をすっかり洗い流している。
 

 


二作品目:三人称、〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制
 洗面台のシンクを底へと流れていく水には濃い赤が混ざっていた。緩慢に洗い流しながら、彼女は自身の手を見つめた。骨張った指、くすんだ指環、深く刻まれた皺に入り込んだ、粘性のある赤。まだ早鐘を打つ彼女の心臓に、水は冷たかった。
 ずっと昔から覚悟はできていると思っていた。けれど、本当の意味では覚悟などできていなかったのだった。彼女はいまになってそれを痛感した。どこかで、もう残り少ない老い先を、このまま一緒に終わらせられるものと期待していた。甘かった。
 体温を、熱を奪っていく水に、けれど何か、彼女は懐かしさを感じてもいた。忘れていた遠い昔の記憶、彼女はよく手を洗っていた。汚れを落とすためではなく、気を落ち着かせるために。彼女はふと、顔をあげた。
 鏡には彼女が映っている。若いころの彼女が映っている。精一杯のおめかしをして、おろしたてのコートを着て、艶のある手を流水に浸している。頬がほんのり赤いのは別に、チークを塗りすぎたわけではない。
 ――まったく、今日子ったら。
 小さく呟く。彼女が手を洗っているのは、ガールフレンドのアドバイスによるものだ。気分を落ち着かせるには、手を洗うといい。単純明快だ。顔を洗うんじゃなくてね、みたいな余計な言葉がなかったり、そもそも顔を赤くさせたのがアドバイスした本人じゃなかったりすれば、もっといい。いろいろと思い返してはまた赤面しそうになって、もう平静に戻ったはずと、彼女は鏡を見返す。
 鏡に映る彼女は老いていた。目もとを腫らして、手を洗っていた。思い出は少しづつ蘇って、彼女のまわりを巡っていた。あのときも、この洗面所で手を洗っていたのだった。ふたりがほんとうの意味で結ばれた日。遠い未来の約束をした日。
 ――どうして手を洗ってるの。
 顔をあげると今日子が映っている。どこまでも深い黒の瞳は、鏡越しに、まっすぐと彼女を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」ふたりして、くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから彼女を抱きしめながら、今日子がささやく。声色は優しく、けれどその優しさにはどこか悲観があるように彼女の胸に響く。もっと頼ってくれていいのに。もっとわがままでいいのに。
 ――そんなことないよ。
 だから声に出して、彼女は今日子の言葉を否定する。ふたりの選択を肯定する。
 彼女は鏡を見る。ふたりが映っている。無数の未来が開かれている。終わり方はきっとひとつでも、いつか私が今日子を殺めるその日まで、私たちはふたりなのだと、繋いだ手の温かさに、彼女は確信する。
 彼女は鏡を見た。彼女はひとりだった。ひとりになってしまった。刻んだ皺、低くなった目線、狭くなった視界。彼女は自分の手を眺めた。綺麗に洗い流してしまった手には、もはや何も残っていないように見えた。くすんだ指環の裏側、指とのあいだに入り込んだ赤は、誰にも気づかれずに、ただ、その色を残していた。

 


メモ

・さいしょに書いておくと、参考にいろいろ先人の書き方を調べるなかで読んだ鷲羽さんという方の実作にかなり影響を受けています。これは本当にすごい。今回はこういうの書けたらいいな〜と思って書きました。まあ到底、というところですが。
・今回のプロットと形式について。
 ・主人公は二回以上「思い出す」必要があるわけだけど、明示的に思い出させるのも野暮ったいので、それ以外の手法も使いたい
 ・語り落としに加えて、一人称視点と三人称視点の差で読み方が変わるような書き方ができると嬉しい
あたりをざっくり考えながらお風呂に入ったところ、プロットが一気に降ってきました。お風呂に鏡があってよかったです。
・一作品めの方は過去時制のみと現在時制のみの両方で軽く書いてみて、時間の転換がより鮮やかになったので現在時制のみで書くことにした。合評会で「映画てきな効果があった」と言われ、意図したところだったのでにこにこに。
・しかしながら、二作品めで同じ物語をほとんど変わらない視点で(けれど異なる仕方で)語り直すというのはかなり苦しかった。文章に固有のリズムや流れをねじ曲げる必要があるのに、しかしプロットはそのまま、というのが難しい。というか苦しい。いまを過去時制、過去を現在時制というあまりない書き方は勉強になりこそすれど別に書く分には困らなかったものの、どう一作品めと差異をつくるかはかなり悩んだ。結果として説明てきな内容を増やす、一人称ではなかった指環を生やすことで「主人公には意識の外にあるが重要な意味を持つモチーフ」の対比をつくることはできたが、それは果たして実効的なのか? は読者に委ねるところ。
・今回の修辞表現としては「鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。」はかなりお気に入り。あえなく二作品めではばっさりカット。ナボコフがロリータの冒頭の押韻をロシア語版では泣く泣くカットしてるみたいなもんやね(何様?)
・登場人物としてカップルを選ぶとき、それを男女にするのが「一般的にそうだから」くらいの理由であれば、「わざわざ」男女を選ばなくとも、女女でも男男でもいい、というのはふだんから考えているところではあるんだけど、こういう三人称で書く場合に男女にするのは明確な利点があって、「彼」「彼女」で一意にだれを指しているのかがわかるようになる。今回、三人称の方は「彼女」「今日子」のふたつで二人の登場人物を指し示しているものの、多少の違和感はあるように思う。いわゆる三人称全知で書いたとしたら、片方だけを特権的に「彼女」としたら相当の違和感が出るはず。
・投稿の順番がノクチルのやつと前後したものの、これが去年最後に書いた文舵の課題になる。ちゃんと小説を書き始めたのが文舵と同時なので、これでほぼ半年、ということになる。筆力はさいしょよりはついたと思う。間違いなく、文章を構成する要素に以前よりは自覚てきに書ける/読めるようになった。ただ、この回の合評会中に「特殊な課題だったけど誰がどれ書いてるかはわかるしあんまり違い(効果)がわからない」という発言があって、それもまあ理解できた。私は文体はけっこう課題ごとに切り替えたつもりで、じっさいかなり差異があると思うんだけど(たとえば練習問題②の問二と③の問二、第四章の問一で見ればぜんぜん違うはずだ)、「よく使う文体」はあって、その文体の芯みたいなものはそんなに変わっていない。
・まあ変わる必要があるかといえばないわけだけど、同じものしか書けないと思われるのも癪なのでノクチルのやつではいままでと若干違う文体ふたつで書けたように思う。そういう経緯もあった。

文体の舵をとれ 〈練習問題⑤〉簡潔性

 一段落から一ページ(四〇〇~七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。

 

 早朝、師走の海沿いを進む列車は、すべてが今日になり損ねて昨日のままのような、ある種の静謐さを湛えていた。とっておきの秘密を共有するように小声で語り合う学生たち、すり減った手袋を膝の上に揃えて眠る旅行客、それらを照らす透き通った朝の光。

 車窓に寄せた手のひらに息を吹き込んで暖をとる。昨夜この地域一帯を覆い尽くした初雪は、豪雪地帯の列車の運行をとめるには至らなかったものの、予算削減にあえぐ鉄道会社の吐息ばかりの暖房を制して、窓からドアの隙間から、めぐった季節の冷たさを送りこんでいた。

 マフラーの巻きを強めて、規則的に揺れる振動に身を任せる。逃げるように飛び込んだ列車は、それでもいつもどおりに私たちを運んでいく。 目の奥を刺す雪の白。その向こうで灰色に輝く海の、音には聞こえない息遣い。一定のリズムで揺れるシートの上で、ガラスを隔てた世界のすべてが、澄んだ朝の気配にその一息までも自覚的になる私の呼吸と調和して。

 ――胸元にしまっていた携帯電話がその静寂を遮った。

 慌てて着信音を止める。心臓は想像以上に乱れていた。昨日の記憶。屈辱。怒り。私がいまこの列車に揺られている理由。深呼吸する。心臓は想像以上に乱れていた。全部を置いてきたはずだったのに。携帯なんて持ってくるんじゃなかった。

 乗客のみなさんすみません。心のなかで何度も唱えながら、持ち手を押し上げて窓を開ける。

 外の風が隙間をこじ開けるように吹き込んで全身を冷やす。視線が集まっているのを感じる。十秒もあれば足りるだろう。

 手を振りかざして、窓の外へ携帯電話を放り投げた。遠く遠くに飛んで、刹那に視界から消える。勢いに任せて窓を閉める。静寂が、あたたかさが戻っていく。

 これで一件落着だな、と思う。車窓から差し込む朝日に、かじかむ手のひらを透かした。この電車の行き先は、私も知らない。

 

 

メモ

・課題が「簡潔性」なので、あえて副詞も形容詞もなしに細やかで叙情的な文章が書けないか、と思って頭を悩ませていたところ、こういう文章になった(特に前半)。読み返すとちょっとくどい気もする。「すべて(全部)」「いつも通り」「遠く」あたりは副詞的に用いられることもあるけれど、名詞として使っているので名詞です。あと、「〇〇さ」で名詞化したり、「〇〇的」とか「のように」みたいなせこい表現を多用している。せこい表現ってなに?

・携帯電話を投げ捨てるのは瀬戸口廉也がよく使うモチーフですね。合評会では後半部分が息切れ感というか、急に表現が簡潔になりすぎではみたいな指摘があったので、バランスがよくなるように多少手直しをしました。動きがないし展開もないねぇ~と思っていたら偶然携帯電話を投げる後半のシーンを思いついたので、前半と若干コンセプトが異なっていたところがあった。上手く緩急になってくれていればいいのですが。

・実を言うと、書いたのが11月とかなので書いたときのことはあんまり覚えていない。文章のリズムや表現で共起される流れで次の文章を書きすすめるような書き方を多用しているので、言葉遣いの段階で語彙が極端に制限されるとアウトプットするのにめちゃめちゃ時間がかかった記憶がある。

自選短歌(2)

 

 

海だから 二十五センチメートルのこの水槽を母としようか

 

 

テレビからマジカルビーム世界が破滅したあとの景色をお送りします

 

 

もういくつ寝るとお正月 廃墟みたいな実家の窓辺

 

 

まあそんな感じで日は暮れていきます忘れた頃の痛みみたいに

 

 

泳ぐのは春の驟雨の歩道橋ふりさけ見れば傘のパノラマ

 

 

山はねぇいいよ空気がおいしいしたまにリスとか見れるらしいし

 

 

餅が好き。たぶん死んでも餅が好き。墓石は餅でお願いします。

 

 

ウルトラハイコンテクストそれは夢だから縦になるまで寝ててもいいよ

 

 

毎日がんばっていこうよ丁寧な暮らしの先の地獄目指して

 

 

頭のいい人が好きだけど頭のいい人が嫌いだしあなたも嫌い

 

 

撫でられる犬/食べられるものもなくただただそこでただずんでいる俺

 

 

早起きも魅力的ではありますが布団がわたしを好きすぎるので

 

 
 

選外

大工はねぇいいよ体が大きいしたまにビスとかくれるらしいし

 

 

ワニはねぇいいよお口が大きいしたまに人とか食べるらしいし

 

 

シャケはねぇいいよとにかくおいしいしたまに川とか遡(のぼ)るらしいし

 

 

君はねぇいいよいつでも優しいし玉に瑕とか思ってないし

 

 

旅はねぇいいよ私を知らないしたまに街とか歩くらしいし

 

 

前回

[全訳]デリダ「人間科学の言説における構造、記号、遊び」 ディスカッション

凡例

一、原文でイタリックで強調されている語には傍点を付した。

一、原語を示す場合には、()で括った。

一、原文に[]で補足されている内容については〔〕で訳出した。ただし、補足内容がたんにフランス語訳である場合には、そのまま()で括った。

一、訳注は末尾にまとめているが、一部本文中に〔※訳注:〕の形で挿入した。

 

 

 ジャン・イポリット:称賛すべきプレゼンテーションと議論を披露してくださったデリダに、率直に、プレゼンテーションの技術的な出発点がまさに何であったのかの説明をお聞きしたく思います。それは、構造の中心の概念への問い、すなわち中心とは何を意味するのかという問いです。たとえば、ある代数的な構造物〔の全体〕の構造を取り上げたとき、その中心はどこにあるのでしょうか?

 中心というのは、私たちが諸要素の相互作用を理解することを曲がりなりにも可能にするような、一般的な諸規則についての知識なのでしょうか? それとも、全体のなかで、ある特権を享受している特定の要素が中心なのでしょうか? 思うに、私の疑問は、中心を抜きにして人は構造について考えることができないということ、そしてその中心自身は「解体されている(destructured*1)」ことと関連しています。違いますか? 中心は構造化(structured)されてはいないのです。人間の科学(sciences of man)を研究するにあたって、私たちが自然科学から学ぶべきことはたくさんあります。それらは、私たちが次々に自分自身に投げかけるさまざまな問題のイメージのようなものです。たとえば、アインシュタインとともに、私たちはある種の経験的証拠の終焉を見ます。そして、それに関連して、時空の組み合わせである定数の登場も目撃します。これは、経験を生きる実験者のいずれにも属していませんが、ある意味で、構成全体を支配しています。そしてこの定数の概念――これが中心なのでしょうか? しかし、自然科学はさらに進んでいます。もはや定数を探すのではありません。何らかの起こりそうもない出来事があって、それがしばらくの間、構造と不変性をもたらすと考えているのです。それは、すべての出来事はあたかもある種の突然変異のように、いかなる作者や人の手にも依らず、手書き原稿の読み違え(the poor reading of a manuscript)のように、構造の欠陥として〔のみ〕実現されるということ、単に突然変異として存在するということでしょうか? このようなことなのでしょうか? それは、起こりそうもないハプニングによって偶然生み出される遺伝子型のような性質の問題なのでしょうか? ひと続きの化学分子が絡み合って特定の仕方で組織化し、具現化されるものとしてのひとつの遺伝子型をつくりだし、そしてその遺伝子型の起源は突然変異のうちに失われている、そうしたひとつの接合*2のような性質の構造の問いなのでしょうか? それがあなたが向かおうとしているものなのでしょうか? なぜなら、私自身、その方向に進んでいると感じており、歴史的なもの(the historic)の統合の実例を――私たちがある種の歴史の終焉について語っているときでさえ――そこに見いだしているからです。構造の具体化のまさに中心にあるということがありえない限り、出来事(、、、)という形式のもとで、まさに、もはや終末論的歴史とは何の関係もないこの歴史は、起源が絶え間なく置き換えられるために、それ自身の探究においてつねに自らを失っているのです。そしてご存知のように、私たちが今日話している言語、言語活動(ランガージュ)という意味ですが*3、それは遺伝子型について、そして情報理論について語られているのです。

 自然が、突然変異を実現してきただけでなく、永続的な突然変異体たる人類をも実現すると考える一種の自然哲学に照らして、この意味抜きの記号(this sign without sense)、この永続的な後退を理解することができるでしょうか? つまり、ある種の伝達の誤りや奇形が、つねに奇形であってその適応が絶え間ない逸脱であるような存在を生み出したのであり、また、人類の問題は、あなたがやりたいこと、あなたが今現在進行中のことのはるかに大きな領域の一部になるでしょう。つまり、中心の喪失――特権的であったり、起源であるような構造がないという事実――は、人間が元の場所に返されるだろうまさにこの形式の下に見ることができるのでしょう。これがあなたが言いたかったことでしょうか、それとも何か他のことを言おうとしていたのでしょうか? これが最後の質問になります。長々と話してしまったことを謝罪します。

 

 ジャック・デリダ:あなたの発言の最後の部分について、私は完全に同意すると言えます――しかし、あなたは質問をしていましたね。私は自分がどこへ向かっているのか、自分でもよく不思議に思っていたのです。ですから、まず、正確に言えば、自分がどこに向かっているのか、もはやわからなくなるような地点に私自身を置こうとしているのだ、と答えることにします。そして、この中心の喪失について、もはや中心の喪失による悲劇ではなくなるような「非-中心」という考えに近づくことを私は拒否します(、、、、、)――この悲しみは古典的なものです。そして、私はこの中心の喪失が肯定されるような考えに近づこうと考えた、ということを言いたいわけでもありません。

 あなたがおっしゃったこと、自然の産物における人間の性質や状況については、私たちはすでに一緒に議論してきたと思います。私はあなたの表現したこの不公平(partiality)を、あなたとともに完全に引き受けようと思います――あなたの言葉〔の選択〕を除いて。そしてここでは、つねにそうであるように、言葉はたんなる言葉以上のものです。つまり、私は明瞭な代替案を提供する準備はしていませんが、あなたの明瞭な定式化を受け入れることもできないのです。ですから、私が自身がどこへ向かっているのかを知らないものとして、私たちが使っている言葉が私を満足させるものではないものとしたうえで、これらの留保を念頭に置いて、あなたに全面的に同意します。

 ご質問の最初の部分についてですが、アインシュタイン定数は定数ではなく、中心でもありません。それはまさに変動性の概念であり――最終的にはゲームの概念なのです。言い換えれば、それは何もの(、、)かについての概念、つまり観測者がその場を支配できるような中心の概念なのではなく、しかし結局のところ、私が念入りに組み立てようとしていたゲームの概念そのものなのです。

 

 イポリット:それはゲームにおけるひとつの定数(a constant in the game)なのでしょうか?

 

 デリダ:それは定冠詞付きの(、、、、、、)ゲームの定数(the constant of the game)です......

 

 イポリット:定冠詞付きのゲームのルール。

 

 デリダ:それはゲームを統治する(govern)ことのないゲームのルールであり、ゲームを支配する(dominate)ことのないゲームのルールです。いまではゲームのルールはゲームそれ自体によって置き換えられており、そのとき私たちはルール(、、、)という言葉以外のものを見つけなければなりません。代数学に関係することで言えば、たとえば、有効数字のグループや、お望みなら記号のグループといったものが中心を奪われている例だと思います。しかし、代数学はふたつの観点から考えることができます。一方では、これまで述べてきたような、絶対的に脱-中心化されたゲームの実例あるいは相似物として。そしてもう一方として、私たちは代数学フッサール的な意味での生産物として、つまり、歴史や、生活世界(Lebenswelt)や、主体などから始まって、そのイデア的対象を構成し、創造する、そうしたイデア的対象の限定された場として考えることができ、その結果として私たちは、そのなかに、一見失われて見える意味をもつものが派生している起源を再活性化させることで、つねに代替物をつくることができるはずなのです。思うに、代数学はこのような仕方で古典的な思考だったのでしょう。そうでなければ、ゲームのイメージとして考えることもできるかもしれません。あるいは、私たちが主体や人、歴史と呼ぶような活動によって生み出されるイデア的対象の場として代数学を考えることで、古典的な思考の場に代数学の可能性を取り戻すか、はたまた、代数学を徹頭徹尾に代数的な世界を映し出す不穏な鏡として考えるか、ということです。

 

 イポリット:そのとき構造とは何でしょうか? もし、もはや代数学の例がつかえなくなったとしたら、中心がどこにあるのかを見るために、どうやって構造を定義するのですか?

 

 デリダ:構造という概念それ自体が――これは余談ですが――もはやゲームを記述するのに十分なものではないのです。どのように構造を定義するのか? 構造は中心にあるべきでしょう。しかしこの中心は、古典的にそうであったように、創造主や存在、あるいは固定された自然な場所のように考えることもできれば、あるいは、たとえばひとつの欠如として考えることもでき、「機械の遊び(jeu dans la machine)」や「コイン遊び(jeu des pieces)」と語られる意味での「遊び」*4を可能にするような何かであり、そしてそれは受け取り——これが私たちが歴史と呼ぶものですが——を行います。一連の決定や、この欠如から始めなければシニフィアンになることのできない、最終的にはシニフィエを持たない一連のシニフィアンを受け取るのです。ですから、私が述べたことは、たしかに構造主義に対する批判として理解することができると思います。

 

 リチャード・マクシー:あなたの暫定的なゲーム理論に代表される形而上学批判で、あなたのチームに参加できるプレイヤーを時期尚早に特定しようとした私はオフサイド(hors jeu)をしていたかもしれません。しかしながら、あなたとニーチェが私たちに熟考を促すこの恐ろしい展望を、ふたりの現代の人物が見るかもしれないという共鳴に、私は心を打たれたのです。私はいま、一人目として、ハイデガーとのあいだに独特の逆説的な関係を持っている「改革派の」現象学者であるオイゲン・フィンク*5の晩年の経歴について考えています。クレーフェルトやロワイヨモンでのコロキウムの時点で、かれはすでに、「存在(Sein)」、「真理(Wahrheit)」、「世界(Welt)」を、単一で根本的な問題の還元不可能な部分であるとみなすために、概念的世界の二次的な地位を主張する用意があったのです。たしかに、かれの『事前問答(Vor-Fragen*6』やニーチェの本*7の最終章で、かれはツァラトゥストラ的なゲーム(、、、)の概念を、哲学の外側(あるいは背後)への一歩として進めています。かれのニーチェハイデガーニーチェを比較するのは興味深いですよ。ハイデガーが「存在(Sein)」を「存在者(Seiendes)」より優位においているのを逆転させるかれの議論が、それによって私たちの発表したトピック、「人間(、、)科学(les sciences humaines)」のポスト・ヒューマニズム批判に興味深い結果をもたらすことに、あなたも同意していただけるのではないかと思います。たしかに、『遊びー世界の象徴として(Spiel als Weltsymbol)』において、統括する「ワールドゲーム」は、プラトン的な存在(being)と仮象(appearance)の区分以前にあり、人間的、個人的な中心を奪われている、非常に前にあって匿名的なものなのです。

 もうひとりは、「満場一致の(、、、、、)夜」〔※訳注:という表現*8〕において、かれのフィクションの詩学の中心をナラティブのゲームに移行させたあの作家、迷宮の建築家かつ囚人、ピエール・メナールの生みの親。

 

 デリダ:きっとあなたは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスについて考えているのでしょう。

 

 シャルル・モラゼ:一言だけ。言語以外の文法の可能性についてのレヴィ=ストロースとの過去20年にわたる対話に関してですが――私はレヴィ=ストロースが神話の文法秩序について行ったことに大いに敬服しています。私は、同様に出来事の文法も存在するということを――ひとは出来事の文法をつくることができるということを――指摘したく思います。それは確立することがより困難なものです。私たちは今後数ヶ月、数年のうちに、この文法、というよりもこの一連の出来事の文法が、どのように構成できるのかを学び始めると思います。そして〔この文法は〕、私の個人的な経験によればですが、あなたが示したものよりも少し悲観的ではない帰結をもたらすでしょう。

 

 リュシアン・ゴルドマン:私がいいたいのは、私はデリダの結論には同意できませんが、かれがフランスの文化生活に触媒的な役割を果たしていることがわかり、それゆえにかれに敬意を表するということです。私はかつて、かれは私の、1934年にフランスに来たときの記憶を思い出させてくれると言ったことがあります。当時、学生たちのあいだでは非常に強力な王党派運動があり、突然、同じように王党派を擁護するグループが現れたのですが、それは本物のメロヴィング朝の王を要求していたのです!

 主体あるいは中心を否定するこの運動、言ってみれば、デリダが見事に定義したこの運動において、かれはこの立場を代表するすべての人びとにこう言っているのです。「しかしあなたは自分自身と矛盾していて、けっして最後までやる遂げることはありません。最後に、神話を批判するさいに、もしあなたが批評家の立場、存在、そして何かを言う必要性を否定するのなら、あなたは自分自身と矛盾しているのです。なぜなら、いまだにあなたは何かを言っているM. レヴィ=ストロースなのですから。そしてもし、あなたが新しい神話を作るのであれば……*9

 ええ、批判は卓越したものでしたから、改めて取り上げる必要はないでしょう。しかし、もし私が、テクストに加えられた破壊的な(destructive)性質を持ついくつかの単語に注目したならば、私たちはそれを記号論のレベルで議論することができるでしょう。しかし、私はデリダに質問したいと思います。非合理主義者から形式主義者まで、現代のあらゆる潮流が志向する一連の仮定に基づいて議論するのではなく、あなたの目の前にはまったく異なる立場、たとえば弁証法的な立場があると仮定してみましょう。簡単に言えば、科学は人間がつくるものであり、歴史は誤りではなく、あなたが神学と呼ぶものは許容可能なものであり、世界は秩序だっているとか、神学的であるとか言うのではなく、人間は最終的にどこかの時点でその意味に抵抗するだろう言葉に意味を与える可能性に賭けているものであると考えるのです。そして、あなたの言う典型的な二分法の状態の前にあるものの起源や基本的なもの(あるいはグラマトロジー*10においては、意味が存在する前に登録する行為)は、今日私たちが研究しているものですが、私たちは内部から突き抜ける(penetrate)ことはできませんし、そうしたいとも思いません。というのも、沈黙のうちでしか内部から突き抜けることはできないからです。私たちが自分たちが練り上げた論理にしたがって理解しようとし、どうにかしてさらに前進しようとするとき、それは神などによって隠された意味を発見するためではなく、人間の役割として世界に意味を与えるためなのです(さらに、人間がどこから来たのかを知らずに、私たちは完全に無矛盾になることはできません。というのも、もし質問が明確であれば、知ってのとおり、もし人間は神から来たと言えば、誰かが「神はどこから来るのか」と尋ねるでしょう。そして、もし人間は自然から来たのだ、と言えば、誰かが「自然はどこから来るのか」と尋ねるでしょう。などなど。)。しかし私たちは内部にいて、このような状況にあるのです。では、あなたの前にあるこの立場は、やはり矛盾しているのでしょうか。

 

 ヤン・コット:かつて、マラルメのこの有名なフレーズは非常に意味深いものに見えました。「賽の一振りは決して偶然を廃することはないだろう。("Un coup de dés n'abolira jamais le hasard.")*11」 あなたが私たちに与えてくれたこの講義の後で、こう言うことが可能ではないでしょうか。「そして偶然も決して賽の一振りを廃することはないだろう!("Et le hasard n'abolira jamais le coup de dés."*12)」

 

 デリダ:コット氏には、即座に「はい」と答えます。ゴルドマン氏が私に言ったことについては、私が言ったことのなかで、かれが破壊的と呼ぶ側面を切り取っているように感じます。しかしながら、私は、私が言ったことのなかには破壊的な意味を持つものはなかったという事実を、かなり明白に述べたと思います。私はそこここで脱構築(、、、)déconstruction)という言葉を使いましたが、これは破壊(destruction)とはなんの関係もありません。つまり、脱構築はたんに(そしてこれ(is simply a question of)が古典的な意味での批評に必要なことですが)、私たちが使っている言語の含意や歴史的な沈殿作用に注意を喚起することなのです――そしてそれは、破壊ではありません。私は古典的な意味での科学的な仕事の必要性を信じていますし、現在行われているすべてのこと、さらにはあなたの行っていることの必要性をも信じています。しかし、科学、人類、進歩、意味の起源といったものを不毛化する危険性があるという口実で、私やほかの誰かが、批評的な仕事の急進性を放棄しなければならない理由がわかりません。私は、不毛と不毛化のリスクはつねに明晰さの代償であると信じています。最初のアネクドートについて、私はかなり悪く捉えています。なぜなら、それは私を超王党派(ultraroyalist)、つまり少し前に私の母国で言われたように「ウルトラ」と定義するものですが、しかしながら私は自分のしていることについて、はるかに謙虚で、控えめで、古典的な概念で捉えているからです。

 モリゼ氏の言及した出来事の文法についてですが、私は出来事の文法が何であるかを知らないので、かれの質問に戻らなければなりません。

 

 セルジュ・ドゥブロフスキー:あなたはいつも非-中心(、 、、)について話しています。どのようにすれば、あなた自身の視点で、知覚とは何なのかの説明をしたり、あるいは少なくとも理解したりすることができるのでしょうか。というのも、知覚とは、まさに私に中心化されて(、、、、、、)世界が現れる方法だからです。そしてあなたは言語を平らなもの、あるいは水平なものとして表現していますが、現在、言語はまた別のものです。メルロ=ポンティが言ったように、それは身体的な志向性(intentionality)なのです。そしてこの言語の使用から出発すると、言語の意図(intention)がある限りにおいて、私は不可避的に、ふたたびある中心に行きつくのです。というのも、話すのは「だれか(”One”)」ではなくて「私(”I”)」だからです。そして、たとえその「私」を削減したとしても、ふたたび志向性の概念に行き着かざるをえないでしょう。思うに、この概念は思考の根底にあるもので、そのうえ、あなたはそれを否定していません。したがって、あなたはそれを自身の現在の試みとどのように調和させているのか、お尋ねします。

 

 デリダ:まず第一に、私は中心がないとは、中心がなくてもやっていけるとは言っていません。私は、中心とは機能だと信じています。ひとつの存在――ひとつの現実(reality)ではなく、ひとつの機能だと。そしてこの機能は、絶対的になくてはならないものです。主体は絶対的に必要不可欠なものです。私は主体を破壊することはありません。位置づけるのです。つまり、私は、経験においても、また哲学的および科学的言説においても、特定の段階においては、主体の概念なしには成り立たないと信じています。主体はどこから来て、どのように機能するのかということが問題なのです。だからこそ、私は、必要不可欠だと説明した中心という概念も、同様に主体という概念も、そしてあなたが言及された概念体系全体も保持しています。

 志向性について言及されたので、率直に、志向性の運動を創設しようとしている人たちを見てみようと思います――それは志向性という言葉では捉えることのできないものです。知覚については、私はかつて必要な保全だと認識していたと言っておかなければならないでしょう。私はきわめて保守的でした。いま、私は知覚が何であるか知りませんし、知覚が存在するなどとはまったく信じていません。知覚とは、まさに概念です。直観の概念あるいは物自体に由来する所与の概念であって、言語や参照系からは独立して、それ自身の意味のなかで現れるものです。そして私は、知覚は起源や中心の概念と相互依存の関係にあり、その帰結として、私がこれまで話してきた形而上学に打撃を与える内容は、まさに知覚の概念をも打撃すると考えています。私は、知覚というものがあるとは少しも信じていません。

 

 

 

蛇足(訳者解説......のようなもの)

 この文章は、デリダが1966年にジョンズ・ホプキンズ大学で行った講演「人間科学の言説における構造、記号、遊び」のディスカッション(質疑応答)部分の全訳である。「人間科学の言説における構造、記号、遊び」自体は『エクリチュールと差異』に収録されているため、邦訳も豊富にある(喜ばしいことに、今年改訳版も出た)。しかしながら、このディスカッション部分については邦訳はいままで存在しなかった。

 もともとデリダの発表は「批評の言語と人間科学("The Language of Criticism and the Sciences of Man")」と題された学会の一部分で、The Structualist Controversy, Ed. Richard Marksey and Eugenio Donato, The Johns Hopkins Press University Press, 1970 にはすべての発表が収録されている(もちろんこのディスカッションも収録されている。ネットで調べればpdfが出てきてしまうので、誤訳を見つけて鬼の首を取ったように指摘してほしい)。

 この学会には当時まだ無名だったデリダ*13のほか、ジラール、ド・マン、ラカン、バルト、イポリット......といった錚々たるメンバーが参加しているが、そこで行ったデリダのこの講演「構造、記号、遊び」――ソシュールからレヴィ=ストロースまでの構造主義への大々的な批判、新たに提出した諸概念――のインパクトによって、ここからポスト構造主義が始まったとされる、というようなことは有名な話である*14

 しかしながらこのインパクトは同時にデリダの意図を離れた影響をもたらしていた。たとえば、脱構築は主体を否定するもので、文脈を離れた自由な戯れしかもはや存在せず、すべての議論は無限後退に追いやられていってしまうというような、浅薄なデリダ理解がそれである。

 本文をお読みいただければわかるように、デリダはこの初期も初期の発表のなかで、同様の疑問をぶつけられ、明確にそれを否定している。

主体は絶対的に必要不可欠なものです。私は主体を破壊することはありません。(...)主体はどこから来て、どのように機能するのかということが問題なのです。」

 ポスト構造主義者と呼ばれる原因をつくったその講演のうちに、ポスト構造主義者としてのちに論駁されることになる批判の大半について否定しているわけだ。つまり、いわば最速で「置き論破」みたいなことをしているわけだけれど、それにもかかわらず、死後に至るまで、主体を否定しているだとか、相対主義者だとか言われてきたわけである。かわいそう。

 このディスカッションでこうしたやりとりがされていることは、わりとデリダ研究者などのあいだでは有名な話らしいのだが、私は2年近く前に初めて聞いた。私がデリダについて学び始めてすぐの時期だったから知らなかっただけかもしれないが、いまでも日本語の文献では言及のあるものはほとんど見たことがない*15。その意味でこの翻訳は、デリダの研究が初期の段階からどのような意図のもとで行われていたのかを、日本の読者が知る一助となってくれるのではないかと思う。

 しかしながら、日本の研究者によるデリダについての丁寧な研究も増えてきた現在、化石みたいなこの文章を翻訳する意味はあったのか? というとなかなか答えに窮するところはある。たいていのディスカッションにつきもののように、だいたいの発言は放言といっていい気がする(オイゲン・フィンクもボルヘスも、ポスト構造主義者として活躍したという話は聞いたことがないし、マラルメを引用したくて仕方ないだけのひともいる)し、どこかしら、だれもが浮かれて発言している感じがある。

 ただ、だからこそ、とも言えるだろう。いまでは過去のテクストとして、「古典」にすらなってしまった「エクリチュール」も、まさに「話された」その当時には、聞いたひとたちがそれぞれの文脈のなかで理解し、感服し、ここから始まるかもしれない未来を思い描いた。ここには、たんに過去のものとしてテクストを読解するときにはけっしてたどりつくことのできない景色がある。熱量がある。外れた未来予想、言及されたもののその後書かれることのなかった題材、個人の思い出と重ねあわせて語られる質問。すべてが、けっしてひとつの方向を向いてはいない。ただテクストを一義的な存在として解釈しようとすることから遠く離れて、その豊穣な可能性に、未来からは選ばれなかった可能性に目を向けるとき、そのテクストの本来の多義性がたち現れてくるのかもしれない。

*1:デリダの「脱構築(déconstruction)」がハイデガーの「解体(destruktion)」)に由来していることは有名だが、ここでのイポリットはたんに「破壊されている」という意味合いで使っているかもしれない。

*2:meeting。meetはもちろん一般的な動詞だが、ここではおそらく生物学的な意味合いでつかわれている。

*3:原文では"à propos of language"とあるが、à proposと言っておいて"language"と英語なのは不自然に思われる。ソシュール的な意味合いに目配せして« à propos de langage »という意味合いで使ったと捉え、上のように訳した。

*4:原文では“free-play”。これは英語版Wikipediaには専用の記事も存在する(https://en.wikipedia.org/wiki/Free_play_(Derrida)デリダテクニカルタームだが、日本語では定訳はない(はず)。ここでは『エクリチュールと差異〈改訳版〉』の表記に準拠して、たんに「遊び」と訳した。

*5:どうしてカトリックに出自をもつオイゲン・フィンクに対して”reformed”という言葉をつかっているのかは不明。

*6:フィンクの"Sein, Wahrheit, Welt": Vor-Fragen Zum Problem Des Phaenomen Begriffs(『「存在、真理、世界」――現象概念の問題をめぐる事前問答(未邦訳)』)のこと。

*7:同じくフィンクのNietzsches Philosophie(邦訳『ニーチェ全集 別巻ニーチェの哲学』)のこと。

*8:ボルヘスが短篇「円環の廃墟」の冒頭で使用した表現(“Nadie lo vio desembarcar en la unánime noche [...]” 「満場一致の夜に船を降りたかれを見たものは誰もなく(...)」)のこと。「夜(noche)」を修飾する単語として”unánime(満場一致の)”を選んだ点で、かれを讃える多くのひとや多くの論文を生み出した、らしい。たとえば以下の記事によれば、「ホルヘ・ルイス・ボルヘスは短編「円環の廃墟」のなかで、かれの文学的天才性の金字塔としてしばしば引き合いに出される一文を書いた。」https://www.elespectador.com/opinion/columnistas/j-d-torres-duarte/la-unanime-noche-una-teoria-sobre-borges/#

 ちなみに、鼓直訳の岩波版では「闇夜に岸に上がった彼を見かけた者はなく」と、翻訳を諦めている(『伝奇集』p.71)。

*9:”because you are still M. Levi-Strauss who says something and if you make a new mythology. . . .” よくわからない。

*10:この講演はデリダが『グラマトロジーについて』を1967年に出版する前年、1966年に行われたものである。ただ、『グラマトロジーについて』の第一部は1965年に発表されている。

*11:日本では「骰子一擲」の名前でも有名。デリダも好んで引き合いに出す詩。

*12:square bracketsで追記されたフランス語では「!」が削除されている。興奮した口調のコットがたしなめられているかのようでかわいそう。

*13:もともとデリダはこの講演に、ベルギーの人類学者であるリュック・ド・ウーシュの欠席の代打として急遽呼ばれたに過ぎなかった、という話もある。 https://hub.jhu.edu/magazine/2012/fall/structuralisms-samson/

*14:デリダが評価され大々的に受容されたのはフランスよりもむしろアメリカが先(その次に日本といった具合)で、それも主にテクスト批評の一手法として理解された脱構築だった、というようなこれまた有名な話も、この講演がアメリカで行われたことと無関係ではない。当時の需要などについては、たとえば巽孝之「危機の現代批評 : アメリカ解体派について」が詳しい。 https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BN01735019-00000003-0207

*15:英語の文献でなら、たとえば以下などでディスカッションについても言及されている。Tim Smith-Laing, An Analysis of Jacques Derrida's Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences https://www.amazon.co.jp/Jacques-Derridas-Structure-Discourse-Science/dp/1912453525