cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』について

(※その知名度に鑑み不要かもしれないが、この文章では『アクロイド殺し』の犯人および『アクロイドを殺したのはだれか』においてピエール・バイヤールが指摘する「真犯人」の名前は明かさない。)

はじめに

 アクロイドを殺したのはだれか(、、、、、、、、、、、、、、)? この問いが挑発的になりうるのは、その答えがあまりに自明なものだからである。アガサ・クリスティーの代表作のひとつ、『アクロイド殺し』における犯人は、広く物語そのものを超えた知名度を持っている。ともすれば、適当な和製ミステリーを数冊読んでいたらどこかでネタバレを喰らった、というケースも珍しくはないだろう(私も昔喰らった記憶がある)。
 本書が試みるのは、そのあまりに自明とされてきた犯人——作中でエルキュール・ポワロが指摘する犯人ではない(、、、、)「真犯人」を指摘することである。推理小説を丹念に読み直すことで、作中の真実を超えた別の真実を浮かび上がらせる、その挑発的な試みはたしかに試みとして面白い。けれどもその指摘は、またその議論、手続きは果たして妥当なものだろうか?
 「応用文学」を標榜する著者ピエール・バイヤールが拠って立つ素振りを見せるのは、ひとつにはフロイト精神分析であり、もうひとつは物語論である。けれど本書を注意深く読めばわかるように、アカデミックな議論を装ったほとんどの議論は単なるレトリックにとどまった底が浅いものか、レトリックとしても破綻しているか、議論自体が破綻しているかのいずれかである。精神分析物語論も有効に扱われているとは言い難い。著者がパリ第八大学の教授であるとか、ル・モンドが絶賛しているだとかいった前評判に思わず本書を称賛してしまう前に、私たちは丁寧にこの本を読み直し、その議論の誤りを指摘してみる必要がある。読んだことのない本について堂々と語ることよりも、読んだことのある本を正当に評価することの方がよっぽど私たちにとって価値のあることだろう。

 

第三章の検討:レトリックの失敗

 本書は「捜査」「反捜査」「妄想」「真実」の四つの章で構成されている。前半の二章、ポワロの推理を点検しつつクリスティの諸作品における構造を整理する「捜査」、クリスティの特定の作品と並べつつ『アクロイド殺し』におけるポワロの推理の不備を指摘する「反捜査」は丹念な内在的読解とスリリングな指摘によって読者を楽しませてくれるものの、アカデミックな装いを提示してくる第三章「妄想」はその必要性がほとんど疑わしい。
 「妄想Delusion」の概念を導入して、それがとりわけフロイト精神分析においてどのような地位を占めてきたかを数十ページかけて延々と語ることで導き出されるのは、驚くべきことに、「現実と妄想は厳密には区別をつけることができない」という、それを言うだけであれば引用元はデカルトでも誰でもいい使い古されたクリシェと、テクストの読解はテクストそのものではない「中間的世界」を形成する創造的作業である、というこれまた(書かれた時期を考慮しても)真新しさのない話に過ぎない。「テクストの読解には権利上幅がありうる(読者のつくる中間的世界はそれぞれ異なりうる)し、どの読解が正当かは自明ではない」という程度の内容にそれだけのページ数を使う必要はない(この俗流ポスト構造主義相対主義の枠をひとつも出ない主張自体については、ここでは否定はしないでおく)。
 また、仮にこのページ数が妥当だったとしたところで、そこから導き出す彼の議論が妥当なものかどうかも疑わしい。この第三章を締めくくる以下の文章は、彼の議論の有効性を判断するうえで非常に有意義なものだろう。

[...]作品テクストと読者のあいだに中間的世界が存在するということがほんとうなら、アクロイド殺しの犯人はそこに逃げ込んだのではないか、そして彼は、作品が書かれて以来、そこで密かに暮らしているのではないかと考えられるからである。彼の生活のうわべの平穏さは、いまや終焉を迎えようとしている。(p.194)

 このレトリックは完全に破綻している。著者自身による説明を反復すれば、中間的世界は私たちが文学作品を読むことによって作り出す世界であって、それ以上でもそれ以下でもない。したがって、これまで一般的な読者によって作成されてきた中間的世界においては、作中で指示される犯人以外は存在しない。なぜなら、その中間的世界というのは作中で指摘される犯人こそが「真犯人」であるような世界だからである。しかしながら、著者が用いたレトリックでは、テクストに施される各々の解釈によってそれぞれに立ち現れる中間的世界を実体化し、再びある種の「テクスト」としてしまっている。そうでなければ、犯人が「中間的世界に逃げ込む」などというレトリックは成立し得ない。仮に著者のバイヤールが第三章で整理した概念を有効に活用するのであれば、言えるのはせいぜい「テクストの奥に隠れた真犯人がまさに現れる中間的世界を描き出す」といった程度だろう。第四章の「創造的読解」によって真犯人の指摘を行う作業も、まさにこの中間的世界の創造にほかならないのだから。
 このレトリックの失敗を取り上げたのは、たんなる揚げ足取りがしたいからではない。レトリックはあくまで比喩の次元の作業であるとはいえ、「レトリックが自身の議論に対して大きく的を外している」という事態が意味するのは、自身の為した議論について著者自身が明瞭に理解できていないということだからである。バイヤールはかなりの部分において、この種の「自分が何を書いてどのような議論の枠組みで論じているのか」に無頓着である、あるいはよく理解できていないように思われる。これは「真犯人」の指摘を行う第四章においてより顕著なものになる。

 

第四章の検討:「真実」は真実を描けているのか?

 たとえば第四章の第一節では、『カーテン』におけるポワロの助手ヘイスティングズによる「嘘」を起点に「推理小説の世界では、全員が嘘つきであり、絶対的な真実などありえないのである」として、推理小説が複数的読解に読者を誘う構造を持っていると結論づける(p.213)*1。しかしながら、「複数的読解に道を開く」構造は、語るという行為そのものが本質的に持ちうるものであり、推理小説に、あるいはフィクションに固有のものではない。語るという行為は主観的にしかあり得ず、語りの構造には省略・歪曲・誤認がつきまとう。そしてそれゆえに、推理小説以外のフィクション、あるいは自伝やドキュメンタリーのようなノンフィクションにおいても、この語りによる省略・歪曲・誤認は発生しうる。「意図的な省略」も「意図しない真実の隠蔽」もひとつのテクストとしては読者に対して等価であり区別がつかないからこそ、批評家による創造的読解が成立しうるし、ノンフィクションの皮を被ったプロパガンダが批判されうる。この「語ること」そのものへの分析は行わず、クリスティーの作品読解から推理小説固有の(、、、)性質へと敷衍させるバイヤールの手つきは、「あのヘイスティングズでさえも嘘をつきうるのだから」を論拠とする、あまりに弱い主張に留まっている。この結論を引き出すために、そもそも『カーテン』を引いて論じる必要などあったのだろうか?

 犯人の指摘においても、アクロバティックな言いがかりは散見される。バイヤールはポワロも驚きの手法――心理学的要素で犯人足り得ない人物を容疑者候補から排除する。「犯人は明らかに決然とした性格の持主で、[...]殺人の計画から実行までに一日も要しなかったというその行動の素早さからは、冷徹、無慈悲で、自分に自信のある人物が想像される。[...]これらの心理学的要素は犯人を特定する人は不十分だが、これによって[...]といった影の薄い人物を被疑者のリストから削除することができる」(p.218)――こんな方法で犯人を特定する推理小説があったら、あなたは納得できるだろうか? とりわけ「周囲からは軽く見られているが実は賢い」といった人物が犯人であることも往々にして存在するクリスティー作品において、この推理はいささかの説得力もない(もっと問題なのは、まさにそうしたトリックが使われているクリスティー作品について、第一章で名前を挙げてその欺きの手法の解説までしていることなのだが)。
 また、真犯人の指摘にあたって、該当犯人は「その秘められた重要性から、当然、作者アガサ・クリスティーの代弁者でもある」とし、「そして、創造の観点からいえば、クリスティーこそがロジャー・アクロイドを抹殺した張本人である」とアナロジカルに「真犯人」が殺人者の地位にあることを指し示す(p.245f)。しかしながら、この議論は誰にでも使うことができてしまう循環論法に過ぎない。「特定の人物Aは(何某かの理由で)重要な存在である」「重要な存在であるAは作者の代弁者とみなすことができる」「作者は物語の創造者として被害者を殺した犯人である」「だからこそ作者の似姿であるAは真犯人なのである」。ここでは、該当人物が重要である何某かの理由さえもっともらしくつければ、誰でも真犯人にすることができてしまう。少なくともこのようなレトリックで信憑性の増す推理というものは、存在しない。

 

おわりに

 ここまでの指摘は、本書における真犯人の指摘がまったく無効なものであることは意味しない。バイヤールの指摘自体が面白さを持ちうること、それが作品自体にもたらしうる奥行きについて、私は否定するつもりはない。
 それよりも私が指摘したかったのは、彼がその主張をなにかアカデミックに正当性をもつものであると見せかける、その不当さにある。
 真面目に読む限り、精神分析は犯人の特定に(レトリックの範囲においてさえも)なんら実効的な成果を上げていないし、精神分析の知見としてなにか新しいことが述べられているわけでもない。第三章はまったく必要ないように見えるし、クリスティーの作品分析とロジカルな真犯人の指摘のみに議論を絞れば半分のページ数で足りただろう。
 訳者あとがきに記載があるように、バイヤールがあえてポワロ同様に「妄想として」穴のある議論をしている、という読解――あるいは擁護は、たしかに十分に成立するものではある。しかしながら、仮にそうであれば何だというのだろうか? 「真剣に書いて/書かれていない」ということが著者へのあるいは著作への批判の逃げ道になりうるのだとしたら、私たちはそのような本に付き合う必要はまったくないだろう。真剣に取り合う必要がないとあらかじめ宣言された本に対してできることがあるとすれば、最初から買わず、読まず、もっといい本を探して読むといったことになる。たしかに批評は、学問的厳密性と遊び心とのバランス感覚のうえに成り立つものではある。しかしながら、このバランスを欠いた「遊び心」が意味するのは、結局のところ批評の不誠実以外のなにものでもないのだから。

*1:この議論自体、正当性は極めて疑わしい。バイヤールはヘイスティングズが偽の信念から為した(いわゆる操りの構図における)行為をもって、その錯誤を理由としてヘイスティングズが嘘つきであるとする。この議論の筋の悪さは、偽の信念から無意識のうちに誤った発言や行為をしうる(嘘をつきうる)という原理的な話を、嘘つきという言葉で行為者に帰責させるばかりか、それをテクストの持ちうる属性として語るところに起因している。「嘘」は一般的に、発話者が意図的に自身の信念に背く発言をすることで相手に偽の信念を持たせようとするものである。バイヤールのように、本人が知らずに誤ったことを言う/してしまうことまで嘘に含めた場合、「錯誤」「誤認」「無意識的行為」といったものと「嘘」との区別は本質的につかなくなってしまう。そしてこの錯誤可能性は当然、(文学)テクストに固有の問題ではない。テクストと“現実”の区別がついていないのだろうか?

啓発をかたる共犯性――映画『帰ってきたヒトラー』について

 2015年公開の映画『帰ってきたヒトラー』は「現代にヒトラーが蘇ったら?」というifを描いたタイムスリップものの映画である。ヒトラーヒトラーのまま(モノマネだと思われ)コメディアンとしてテレビスターになり、本を書いたり、復活してからの彼のエピソードが映画になったりする。もちろんそれだけで終わるものではなく、ヒトラーはひそかに政治的な目標のために動いてるし実際悪人なので、それを支持してしまうような排外主義の強まっている世のなか、気をつけましょうね…といった警告めいたメッセージとともに物語は幕を閉じる。街中で実際に行ったアドリブ主体で撮ったロケ映像を挟んでいることで、現代でヒトラーが受け入れられてしまう現状を描いたドキュメンタリーにもなっている。

 端的に、あまりいい映画ではないと思う。

 風刺なりドキュメンタリーというものは「どの位置から語っているのか」というのがその強度に明確に関わってくるものなのだけど、この作品においては最後に至ってようやく作中の倫理観のリアリティラインが明かされる構造上、必然的に視聴者は倫理的な立ち位置を宙吊りにされる。「この作品はヒトラーをどう描きたいのか?」という作品の軸となる倫理観がふわふわのままに進むので、前半のコメディタッチな内容はほとんど笑えない(誰の立場から誰をどのように笑わせようとしてこの画になってるのかがわからない)。加えてそれが終盤に明かされる構造も「視聴者のみなさん、笑ってたかもしれないけど笑いごとじゃないんですよ」とマッチポンプで説教をしようとしている感じがあって、厳しい。

 それで提示される倫理的な視座というのも、どの程度有効なものなのかは疑問に付す必要がある。この映画が提示するのは、ドキュメンタリーパートでヒトラー(役の役者)に移民についての懸念を話す実際の市民たちや、実際の移民排斥運動の映像を用いた、「これらの現代におけるナショナリズムの高まり、移民排斥運動は新たなヒトラーを生みかねない」というメッセージである。しかしながら、どのようにそれはナチズムと近しいのか、なぜ社会はヒトラーを歓迎して/望んでしまうのかという、主張の核となるフィクションとしてのロジックは、実のところほとんど存在していない。現実の排外主義的傾向は、それがもつ暴力性や問題点はもちろんのこと、複数の多角的な原因が存在しているし、ヒトラーなりナチズムなりがどのようなことをし、どのような原因があったのかについても非常に多くの論点が存在しうるだろう。それを、演説も上手いし人心掌握もお手の物なのでヒトラーはテレビスターになった、という筋書きと、実際にヒトラーのコスプレをした役者さんに街中を歩かせたら面白がる人が多かったという二点を強引に結びつけ、「移民排斥運動はヒトラー的である/ヒトラーの復活を許す世情がある」と短絡的に結びつける。ここにフィクションの力が、あるいはドキュメンタリーとしての洞察があるだろうか?

 仮にこの物語のラストが、曖昧に視聴者に警鐘を鳴らすような終わり方ではなく、より具体的な未来を描いているものだったらどうだろうか。たとえば、実際にその後も人気を集め続けたヒトラーが首相になり、笑顔で就任演説を行っている場面が大写しで映るような終わり方だったとしたら。この結末に納得感を持たせるためには、作品にはそれがどのように/どうして可能になるかの分析が、それが起こり得る内的必然性が求められる。そのような強度がこの作品にあるようには、私には思えない。主張を成り立たせるための個々の要素を配置しただけで、それらがどのように結びつくのかは「現にそうだから」とドキュメンタリーパートに逃げることで想像力を用いない。徹底してフィクションのなかで強度を持たせないことで、具体的にどのように悪いことが、なぜ起きるのか、それはどのように乗り越えられうるのかという分析も希望も展望も欠いている。ヒトラーは民主主義によって選ばれた、私たちのなかにもヒトラーはいるというクリシェが、どのような生産性のある議論に結びつくだろうか?

 そしてこの「これは主観ではなく事実である」という建前が大きければ大きいほどに、この作品は特権的に倫理的な地位を占めてしまう。現状への分析もないまま、ただ「この移民排斥運動はヒトラーを生んでもおかしくない」と不安を煽った制作者は社会的に有意味な問題を提起したとして讃えられ、それを見た視聴者も「この危険性が理解できるあなたは大丈夫です」と免責される。あるいは、途中までのコメディパートで笑ってしまった視聴者は、「あなたも共犯だ」とスクリーンの向こう側から指摘されることで、「この物語を理解できた」と自己を正当化しこの作品を褒めることを余儀なくされる。ここにあるスクリーンと(理解できた)観客の共犯関係と、そこから排除された今日の保守的陰謀論的な「反動」の躍進を結びつけるのはまったく不自然なものではないだろう。

 たとえば日本で移民問題が話題になったとき、この『帰ってきたヒトラー』が先見的な作品であると話題になったりするのは、一見この作品が優れた作品であるようにも思えてしまうものだが、そこにこそ欺瞞がある。たんに当時のドイツで排外主義的な移民問題が関心を高めていたというだけの問題であって(だからこそそうした「実際の」映像素材も使われている)、それとナチズムとは厳密に内在的な繋がりはない。少なくともこの作品においては描けていない。この映画においてヒトラーは、後半でそれを少しばかり語る登場人物は存在するものの、過去に具体的に何をし、どのように悪い存在であったのかという歴史的具体性が剥奪され、メディア消費に最適化された扱いやすい悪のアイコンになってしまっている。それゆえに、この映画を用いて「ヒトラー的だ」と排外主義的傾向を非難する行為は、まったく先見性があるものどころか、実質的な分析も現状把握も欠いた、自身の倫理的優位性を守ろうとする行動に成り下がってしまう。個別具体的な問題をふわっと特定のナショナリスティックな雰囲気に結びつけ、ヒトラーという形象を与えて悪魔化することで「やっぱりあいつらは悪だ」「俺たち左翼は連帯しような…」といった形で平穏を守ろうとすること、この種の行動こそジジェクが『暴力』でシステミックな暴力と読んで批判したものにほかならない。私たちに求められているのは、安易な非難の手法にも露悪趣味にも乗ることなく、徹底して過去と現在の分析を続け、ありうべき具体的な未来の希望を想像することでしかないだろう。

 それが公共に開かれたものである以上、政治とは議論と交渉のプロセスそのものなのであって、そこには絶対の「正解」などというものは存在しない。その内実を描くことなく結論だけを提示し、レトリックで観客に倫理的正当性や優越感をあたえるもの——そうしたものを私たちはプロパガンダと呼ぶのであって、戯画化された道徳劇と化したそこに現実の「政治」は存在しない。倫理的主張も批判も政治も、超越的で安全な立場から行えるものではない。あらゆる判断とその積み重ね、そこにおいて何を賭けているか——その集積としてフィクションを描き、あるいは受け取り、現実を構想すること。それは、内的必然性を欠いた「放言」に近しい映画を見てそれを手放しに褒めるような行為とは、きっと対極にあることだろう。他者の言葉を自分の言葉で語り直すこと、異なる現実を生きる私たちがお互いの認識をどのように擦り合わせ、互いの未来を描けるのかを考える、その困難な判断のなかにこそ政治があるのだとすれば。

 

(補遺)
 本論は終わりとして、ここからは蛇足として雑駁に話をしておけば、私がフィクションが好きなのは、そこに「描かれうる何か」が描かれているからにほかならない。それはたとえば風刺映画、社会派映画と呼ばれるものであれば、現実を変えたいという強い欲望であったり、こうあってほしいという希望であったり、あるいは現状のその先に起こり得るだろう(カリカチュアライズされた)最悪な状況である。それらを想像力によってスクリーンの上にたしかに存在させてしまうこと、それがいい意味でも悪い意味でも説得的な意味を持ってしまうことの魔法が見たいのであって、ドキュメンタリーとしてもフィクションとしても中途半端な、曖昧に警鐘を鳴らすだけの作品を見たいわけではない。そういう点でいうと、たとえば『夜明けまでバス停で』は制作者の「ここまで描きたい」という欲望がたしかに反映されていて、とてもよかった。この映画も原作の小説ではだいぶテイストが違うということなので、原作小説を読んでみたらまた違う感想になるだろうな~と思う。ドキュメンタリーの皮を被せることは、映像としての面白みは確かに増したかもしれないが、フィクションとして踏み込むべきだった作品の強度を落とすことに帰結しているように思えてならない。

「ラビットホール」は本当に初音ミクが歌っている曲なのか?

以下の非常に面白いラビットホールの歌詞解釈を読んだので歌詞とMVを見返していたところ、まったく別の解釈が浮かび上がってきた。

noteのコメント欄に書かせていただこうと思ったものの500字の文字制限を知らなかったので投稿できず、こっちに書くことにします。

以下の記事の前編と中編は読んでいる前提で話は進めます。

note.com

 

まず、別解に進むにあたって𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんのnoteにおける英詞解釈を2点修正する必要があります。

・「淋しくなったら誰でもいいじゃん 埋まればいいじゃん」にあたる"If you get lonely, find anybody, just get lucky"のyouを「youだから男性(ミクの語り相手)を指してる」とされていますが、日本語歌詞原文のように、特に話者自身のことを一般化して語るときは、英語では基本的にyouを使います(Iは使いません)。
 つまり、ここで使われているyouはnot like super-duper specialなyouではなく一般論としてのyou(=anyone)であって、実質的にはミク自身を指していると捉えたほうが次の文との関係としても自然なように思います。

・「こちとらフラフラやってんのん」にあたる"so I’m just smashin’ over here"について、「だからここでぶっ飛んでるだけ」と訳されてますが、smashは非常に一般的なスラングとして、直截的に性行為を指す言葉でもあります。
 そのため英訳は、原文の「フラフラやってんのん」を「フラフラしている」ではなく「フラフラ(こだわりなく)」と「やってる」に分解して、後者だけを考えうる限り一番直截的な訳し方で訳出している、と捉えたほうが適切ではないかと思います。
 「ぶっ飛ぶ」というよりは性的・刹那的・退廃的な響きをあえて意図的に付与していると読むほうが自然かなと。

 性にある種奔放なイメージとあらゆる人間に所有されうる存在であることのアナロジーは、𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんのnoteの中編で語られているラビットホールの裏テーマにも即しているので、より解釈には沿った形になるのかなと思いますが、いかがでしょうか......

 

 と、ここまでは𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんのnoteの解釈に沿った形での歌詞の再検討を行いましたが、私が提出したいのはまったくの別解になります。

別解(この記事の本論)

 ここで、𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんのnoteでは「MVの描写は無視します」と、ラビットホールのMVの描写をあえて無視したことを思い出しましょう。「こちとらフラフラやってんのん、OK?」の直後の「はーい(※英訳では"Roger that!")」という歌詞が、MVではミクから出たフキダシで描かれ、ミクが発話したことになっています。𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんの論では「はーい」はDECO*27さんの言葉ということになりますから、これが画としてミクから発せられていることは矛盾する、という理屈だと私は理解しました。

 しかし、MVでミクが「はーい」と言っていることについては、もっと重要な問題があります。そもそもMV中ではこの「はーい」だけがミクの口から発せられていて、歌詞としても、この「はーい」だけが鍵括弧で括られているということです。これを意識するとまったく別の解釈も可能なように思います。

 それは、主従は逆でもいいのではないか、つまり、はーい(、、、)以外は(、、、)DECO*27(、、、、、、)さんから(、、、、)ミクへの言葉だ(、、、、、、、)という解釈が可能なのではないかということです。

 そもそも歌詞はすべて音としてミクに発話させている上、DECO*27さんは基本的に曲中の掛け声や自身の心情もボカロの口から語らせます。この曲が取り立ててミク目線の曲だと限定する必要はありません。

 また、「悪い子さん」が英訳では"Little Miss Naughty"と独身女性を指していることを鑑みれば、ミクとDECO*27さんの関係において独身女性は当然ミクの方なわけで、この逆転はむしろより自然な解釈になると言えるのではないでしょうか。

 その場合この歌詞は「ときには他の人のところでポップで純情なラブソングを歌ったり、他人のMV中でBADなダンスを踊ったりしてるけど、本当のところは自分(DECO*27さん)を愛して嫉妬すらしているミク*1」を幻視したうえで、そのミクに突き放すようなことをいいつつ突き放せないDECO*27さん、それに対して「はーい」という肯定を繰り返す初音ミク、という構図になります。

 ボーカロイドという性質上複数の関係を持っていたのはミクさんもそうですが、一時期GUMI等に気移りしていたDECO*27さんも同様であって(「おあいこじゃん*2」)、それでも(𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんの言葉を借りれば)「複数の関係を持ちながら本命は君である」のテーマを、自分とミクとの関係というラビットホールをもっと愛そう(love this rabbit hole more and more)とミクに言うことで果たしている曲だ、という解釈が可能になるのです。

 そうすると「厭厭愛して死にたくなって(Fell in love with a meh and felt like dyin’)」のmeh(どうでもいい奴)はGUMI等のDECO*27さんが黒歴史として扱っているボカロのことになりますし、"so I’m just smashin’ over here, OK?"は、結果的に自己嫌悪のような感情から、やっぱりミクしかいないとほかのボカロからミクに戻ってきて、ミクにこんな曲を歌わせ(約1億再生もの面前(over here)で実質的にsmashして)、「はーい」とミクに同意の言葉を言わせているボカロPとボーカロイドのかなり私的な相思相愛ソング.....とも受け取れます。

 いささか過激な解釈にはなりますが、𝑎𝑖𝑛𝑖𝑔𝑚𝑎さんの記事にも引用されているプロフェッショナルでの発言にあるような「どこかよそのボカロPの家に行って歌っているみたいなのを考えたくない」という発言からも、また彼の作風からしても十分考えられなくはないのではないでしょうか。この解釈で初めてLittle Miss Naughtyが理解できますし、ここにはただセクシュアルな歌詞をボーカロイドに歌わせるという次元ではない、「誰が誰を操作しているのか?」という支配と従属の構図に自覚的であるというメタ的な次元が開かれています*3

 追記:この解釈の前提を共有したうえでさらに捻くれた解釈をすれば、ミクが「はーい」としか言わないのは、曲中ずっと並々ならぬ想いやら建前やら複雑な心情やらを独白し続けるDECO*27さんに対して、ミクはずっと醒めた態度で適当な相槌を打っている、と考えることもできる。「醒めたミク」「建前と執着にまみれたDECO*27さん」という構図である。そうすると、(smashは他動詞なので必然的にミクはその関係に巻き込まれていることになってしまうものの)ミクは自発的に応じているわけではなく、皮肉や冷笑混じりの「はーい」でしかない、という欲望が上滑りしている曲だということになる。私たちはDECO*27さんの築き上げた相思相愛の世界を見せられているのではなく、DECO*27さんが自覚的自虐的に描いた世界を見せられているという格好だ。その場合、歌詞の最後の「だっせ」(英訳だとSo Corny)は、鉤括弧で括られていない歌詞であることを踏まえればDECO*27さんの自嘲的な言葉であって、上滑りする欲望に対して自覚的にダサいと切り捨てている、と理解できるようになる。

*1:このミク像を踏まえると、「お純情様(Little Miss Devotion)」のDevotion(無私の献身)も、ボーカロイドがマスターの言いつけに純情に従うだけの存在であることを皮肉に語ってるように響く。

*2:日本語歌詞では「お愛顧」だが、「ご愛顧」ではなく「おあいこ」といっている言葉の響きを文字通りとれば、じゃんけんでいう「あいこ」を文字っているととるのが自然だろう。実際、英語歌詞ではwe're even-stevenと「あいこ」の意味で訳されている

*3:ただこの解釈の場合、歌詞中の「死ぬまで」は文字通りの意味ではなく、比喩として「一生ずっと」という意味になるだろう。初音ミクさんは死なないので。

アレンカ・ジュパンチッチ『腐らせておけばいい――アンティゴネーのパララックス』序文・序章

 

まえがき

 私が以前から細々と行っている読書会で、次に読む本としてアレンカ・ズパンチッチ(※「Zupančič」なので厳密にはズパンチッチが正しい。タイトルでは既存の訳に倣った)の『Let Them Rot: Antigone's Parallax』を選んだ。読書会は日本語で行うことにしているので、訳さないといけない。そういうわけでまずは序文と序章を訳した。

 ここでそれを公開するのは、おもに読書会の参加者募集のため――こんな面白そうな本があるんだけど読みませんか?――である。読書会はオフライン(札幌)で少人数で行っているので、ご興味があればご連絡いただきたい(Twitter/Discord: @awncient)。四月には始める予定なので。原著でも100ページに満たない短めの著作のため、数回で終わる予定です。私の翻訳スピードにもかかっているが......。

 また、ズパンチッチの面白さをもっと広めたい、という気持ちもある。私は以前に彼女の『リアルの倫理――カントとラカン』を読んで、その試みの面白さ――カントの倫理学ラカンを通して補完し、さらには新たな地平まで推し進める――、その議論の鋭さ、大胆さ、そして緻密さに心の底から感動したのだけれど、多作なズパンチッチの著作のうち翻訳されているのはこの一冊のみ(しかも絶版)と、日本における彼女の知名度はけっして高いとは言えない*1。そういうわけで、以下にかんたんに氏の紹介を行う。

 アレンカ・ズパンチッチはスロベニア出身のラカン派の哲学者、社会理論家である。​リュブリャナ大学のスラヴォイ・ジジェクのもとで哲学の学位を取得し、1995年に同大学で博士号を取得、その後、1997年にパリ第8大学でもアラン・バディウのもとで博士号を取得している。スラヴォイ・ジジェクやムラデン・ドラーと共に「リュブリャナ精神分析学派」の主要メンバーとして知られ、 ​現在はスロベニア科学芸術アカデミーの哲学研究所の研究顧問及び教授、スイスのヨーロッパ大学院大学(European Graduate School)の教授も務めている。邦訳されているのは前述の通りカントとラカンを扱った『リアルの倫理』のみだが、ニーチェ研究者としても著名で、ヨーロッパ大学院大学バイオグラフィーによれば『もっとも短い影――ニーチェの〈二なるもの〉の哲学(The Shortest Shadow: Nietzsche's Philosophy of the Two)』(2003年)は氏のもっとも影響力のある本だという。他にもコメディ論『ひとつ奇妙が紛れ込み――コメディについて(The Odd One In: On Comedy)』や『セックスとは何か?(What Is SEX?)』など、幅広いテーマで数多くの著作を著している。また、経歴からもわかるようにジジェクとの親交も深い彼女ではあるが、書きぶりにおいては大きく異なることは指摘しておく価値があるだろう。ジジェクの議論の鋭さはときに大雑把さに由来しており、数多く引き合いに出すモチーフや引用があくまで表面的に(議論のために)処理されることも多い一方で、ズパンチッチはより冷静に、深く作品解釈に踏み込んで個々の要素を再評価し、ラカンの概念や哲学的な議論に――けっして教条主義的ではない批判的な仕方で――鮮やかに結びつけていく。『リアルの倫理』訳者あとがきでの冨樫剛氏の言葉を借りれば、「言わば、ジジェクがものすごい勢いで通り過ぎてしまった後、このジュパンチッチが立ち止まり、ゆっくり話してくれている、といったところ」である*2

 本書には2つのバージョン、アメリカのFordham University PressからIdiom: Inventing Writing Theoryシリーズの1冊として2023年の1月に出版された『Let Them Rot: Antigone’s Parallax』、同年12月にイギリスのDivided Publishingから出版された『Let Them Rot』がある。ざっと見比べた限り、後者ではあとがき「なぜ欲望なのか?」が付されているのに加え、多少表現が改められている箇所も散見される。そのため、タイトルの訳としては『腐らせておけばいい――アンティゴネーのパララックス』と、前者のみに存在する副題をつけてはいるものの、後者を現状の決定版とみなし、以下の訳はDivided Publishing版の『Let Them Rot』から翻訳を行っている。本書に寄せられている、コプチェクとジジェクからのコメントも以下に訳しておこう。村山敏勝氏の逝去とともにラカン派-ジジェク派の批評家や哲学者の文献はとんと訳されなくなってしまった感があるが、まだまだ日本に紹介されていない面白い本は山のようにあるだろうし、それらが再び翻訳・出版されるようになることを心から願っている*3

ズパンチッチのアイディアは新鮮で、まるで現代の理論的論争の雑踏を超えた、どこか開けた空気のなかから湧き出たかのようだ。ソポクレスの『アンティゴネー』に対するこの鮮烈な解釈は、哲学、精神分析、そして政治理論やフェミニズム理論とっての新たな地平を切り拓いている。

――ジョアン・コプチェク(ブラウン大学

かつて『アンティゴネー』についての自著を執筆していたとき、私はこう思っていた。 「よし、これで決まりだ。この主題はもう完結した――さあ寝よう」と。ところが、そこへジュパンチッチが彼女独自の解釈を携えて現れ、いままでのすべてを再考せざるを得ない状況に追い込んだのだ。つまり――これを口にするのは辛いが――ここでは彼女の方が私よりも優れているのである。

――スラヴォイ・ジジェク

『腐らせておけばいい――アンティゴネーのパララックス』

序文

 それは、ある意味では偶然のことから始まりました。ただし、アンティゴネーが何らかの役割を担っていた私の以前の倫理学研究とのつながりが、まったくなかったわけではありません。親愛なる友人であり同僚でもあるドミニーク・ホーンズが、二○二○年一月――つまりパンデミック最初の年が幕を開ける直前――にブリュッセルアンティゴネーに関するワークショップを開くからと、そこに招いてくれたのです。そのワークショップは半日ほどのイベントで、私は参加者と議論するためにメモやアイデアをいくつか用意していました。当時、その発表を進行中の研究とは呼びませんでした。というのも、その時点では何かが「進行」してさらに先へ展開するなどとは、まったく思ってもいませんでしたし、予想すらしていなかったからです。それはむしろ建設現場のようなもので、いくつかの(私なりに興味深いと思えた)アイデアが並びつつも、多くの未整理な断片が散らばっていました。私は議論を大いに楽しみ、その時間にとても感謝して、アンティゴネーのことはそこでいったん置いておいたのです。ところが、パンデミックの最初の年が進み、ロックダウンが続くなかで、ふと私はノートを取り出していくつかの未整理の断片を拾い上げ、再びアンティゴネーについて書き始めました。すると、不思議なほど予想外の軽やかさと力に突き動かされることになったのです。テクストが「自らを書いた」とまでは言いたくありませんが、もともと「偶然」によって生まれた、アンティゴネーについて考え始めるきっかけが、いつしか必然性(、、、)を帯びてきたのは確かでした。それも、愉快な必然性として。いわゆる「ひとつのことが次のことへとつながって」という具合で、私は湧き上がるアイデアを追いかけましたが、それが最終的にどこにたどり着くか、あるいはどこにもたどり着かないのか、さえも分からないままでした。これはパンデミックによってもたらされた停滞のなかで得られた、思いがけない恩恵だったのでしょうか。それとも、自分自身の内側に閉ざされ、まるで施錠(ロックダウン)されてしまったかのような、少し風変わりな精神状態がもたらした作用なのでしょうか。

 それがもし狂気だったとしても、そこには筋道がありました[1]。そして、それは日を追うごとにいっそう明確になっていったのです。全体的な視点の面でも、個別の問いをめぐる面でもそうでした。ソポクレスの『アンティゴネー』ほど多くの解釈、批評的注目、そして創造的反応を喚起してきた古典テクストは、ほかにまずないだろうと思います。私が読む際の大まかな視点を簡単にまとめると、次のようなシンプルな疑問に行き着きます。アンティゴネーという存在の何が、私たちをこれほどまでに魅了し続けるのか。なぜ、これほど多様な読み直しや書き換えが生まれ続けるのか。あらゆる文脈や言語において、『アンティゴネー』を再読し再考するという欲求や衝動は、いったいどのような(つねに)同時代的な矛盾に対応しているのか。

 この全般的な問いを支える主要な拠点として、『アンティゴネー』をめぐる私の執筆と思考を突き動かしたのは、三つの特別な「強迫観念(オブセッション)」でした。第一に、彼女の暴力です。ただしここで言う「暴力」とは、今日もっとも一般的に使われるような、単に軽蔑的な意味で使っているわけではありません。また、私たちが映画やメディアで慣れ親しんでしまった生々しい暴力を指しているのでもありません。概して、『アンティゴネー』における暴力は「生々しい(グラフィック)」なものとは正反対で、鋭く突き刺すようなものです。ほとんど空間を占めることなく、骨の髄までまっすぐ貫いてくる。それは言葉の暴力であり、原理の暴力、欲望の暴力、主観性の暴力です。クレオンが行使する暴力とはまったく異なるもので、権力やその力能から生まれるわけではないにもかかわらず、かなりの力を持っているのです。この暴力はいったい何なのでしょうか。哲学的にも政治的にも、どのように考えればよいのでしょうか。第一章はこれらの問いを明示的に扱っていますが、じつはテクスト全体を通してこのテーマが流れ続けています。

 次に、葬礼の儀式に関する問題があります。それは、人間の生の裏側にあるように思われる、もうひとつの側面——死だけでは終わらせることも、安んじさせることもできない、還元不可能な根底の流れとしての「生ける死(アンデッドネス)」を鎮めるうえで、重要な役割を果たしているのです。この問題を深めるうちに、言語、セクシュアリティ(性的再生産)、死、「第二の死」といったものの関係、さらには、言語の副産物として生じるにもかかわらず、それ自体は言語や象徴界へ(再び)還元されない、特異で非言語的な「現実的なもの(リアル)」についても調査することになりました。

 そして、私が執筆するなかでおそらく最も「取りつかれた」と言ってよいのが、アンティゴネーの「もし埋葬されずに放置されているのが自分の子供や夫だったなら、彼らはそのまま腐らせて(tḗkō)おけばよく、国の布告に逆らってまで自ら埋葬しようとはしなかっただろう」という発言でした。つまり、ポリュネイケスだけにはそうすると言うわけですが、この排他的で唯一化するような主張――アンティゴネーが従う「書かれざる法」を自ら説明するための主張――は、彼女が持つ普遍的な訴求力や強烈な力と、いったいどう折り合うのでしょうか。この疑問に答えようとするうちに、アンティゴネーが守護者であろうと選び取る、この特異な(オイディプス家の)不幸(átē)は、人類一般の状況とどこかで結びついているのではないか、という問いへと一歩一歩導かれていきました。そこから「近親相姦とは何か?」という問い、言語のある種の「近親相姦的」な次元という仮説、そして主体の暴力的な欲望が普遍的な意味を持ちうる可能性へと話が進んでいったのです。

 あきらかに、これらは決して些細な懸念や「強迫観念」ではなく、それだけで長い間、思索や執筆を熱中させてくれるには十分なテーマでしょう。同時に、私はこのアンティゴネーという星座的布置(コンステレーション)のまわりで自身の道を探るにあたっては、これらの――そしてこれらだけの――アリアドネの糸をたどっていきたいと強く思いました。議論は、私の願いとしては、かなり厳密な論理、あるいは必然性にのっとって進んでいるはずです。そして、この内在的な論理が私の問いを導くなかで、私自身、ある道を選んでそこを進むことになりました。アンティゴネーに関する多くの重要な研究があるなかで、私は自分の主張を組み立てるうえで直接役立ったものだけを取り上げ、そうした著者だけを引用することにしました。この本は対立を煽るようなテクストを目指しているわけではありませんが、そうしたいくつかの読解とは明らかに異なる見解を示しています。むしろこれは、幅広く重要な研究領域への、特定の哲学的「介入」と捉えていただければと思います。したがって、この本の抱く野心は、一方でとても控えめでありつつ、同時にとても大胆でもあります。控えめというのは、ソポクレスの『アンティゴネー』における、あるまさに特定のポイントで起きていることだけに介入したいと考えているからです。一方、控えめでないのは、これら特定の、あるいは局所的なポイントが『アンティゴネー』全体を形作る星座的布置に影響を及ぼし得ると――少なくとも暗黙裡には――想定しており、その影響はさらに先へ及ぶかもしれないと考えているからです。

 こうした私のアンティゴネーへの「強迫観念」の結果は、アンティゴネー研究として見ればいくらか型破りに映るかもしれません。あるいは、そうではないかもしれません。いずれにせよ、本書の意義を認めてくださり、Idiomシリーズにぴったりだと評価してくださったポール・ノース、トーマス・レイ、そしてジャック・レズラの三氏に深く感謝申し上げます。彼らの積極的な――「戦闘的」と形容したくなるほどですが、その言葉にはいささか不穏な響きがあるため少し躊躇します――支援によって、この出版を実現することができました。

 

[1] [訳注]原文は “Yet if this was madness, there was method in it.”で、シェイクスピアハムレット』第二幕第二場のポローニアスの有名な台詞 “Though this be madness, yet there is method in’t(気は違っていても、話の筋は通っている。)”のオマージュ。

 

 

プロローグ:「寒々しいものに向かう熱い心」

 ソポクレスが『アンティゴネー』を書いたのは紀元前四四一年以前とされるが、その時代は多くの点で、私たちの現代社会とはほとんど想像もつかないほど異なっていた。それにもかかわらず、アンティゴネーという存在は、実にさまざまな問題や闘争――非常に現代的なものを含む――に関して、私たちの想像力をつきまとい、思考に影響を与え続けている。この百年の間に、『アンティゴネー』を原作とする戯曲の翻案は40作以上も登場しているし、「創造的」な翻訳や数え切れないほど多様な読解(哲学的なものやその他のものも含め)も行われてきた。直近の6年だけを見ても、新たな翻案がいくつも発表されている。たとえば2017年に発表された二作、ステファン・ヘルトマンスの詩的独白劇『モーレンベークのアンティゴネー』とカミラ・シャムシーの小説『ホーム・ファイア』(邦訳『帰りたい』白水社、二○二二年)は、テロリズムおよび現代的な「対テロ戦争」の文脈のなかにアンティゴネーを置いている。また、ソフィー・デラスペの映画『アンティゴネー』(2019)は、近年の難民危機の文脈のなかにアンティゴネーを描く。一方、スラヴォイ・ジジェクの『アンティゴネー』(2016)は三つの代替的な結末を提示し、個人と国家の関係という慣例的で何度も論じられてきたテーマに、集団的主体としてのコロスを第三の要素として導入する力強い方法を編み出している。

 古典戯曲や古典的英雄の物語に、多様な翻案や読解(「解釈」)が生まれること自体はけっして珍しいことではない。とはいえ、『アンティゴネー』は今なお、際立った特異性をもっている。そしてアンティゴネーが生み出してきた様々な解釈の彼女自身がいずれも非常に興味深いものであるという点でも、やはり特筆すべき存在である。ここで「生み出す(インスティゲイト)」という言葉を「触発する(インスパイア)」ではなくあえて選んだのは、アンティゴネーがもたらす効果は、その「冷ややかな」ゆるぎなさによって火を起こすような性質をもっているように見えるからだ。作中の冒頭のやりとりでイスメネはアンティゴネーに対して「寒々しいものに向かう熱い心を持っているのね[1]」と言う。この表現はじつに的を射ていて、私たちがしばしば耳にする「熱い事態には冷静な思考を」という処方箋に対して逆を行くものでもある。つまり、最悪の事態や状況というものはむしろ「熱い」ではなく「寒々しい」ものであり、それらと真に対峙し、周囲をも巻き込むには、非常に「熱い心」が必要だということである。

 かくも多くの力強い翻案が存在するという事実は、原作の戯曲そのものの構成が非常に巧妙であることを示している。私たちがさまざまな翻案について語るとき、そこには差異や区別があることを前提としているが、本当に優れた翻案は、いずれも何かを再生産してもいる。すなわち、原作の戯曲が提示した「アンティゴネー」と呼ばれる星座の何らかの特異性を、繰り返し、あるいは再創造し、再活性化することに成功しているのである。

 一般的にいえば、社会の構造や、法の象徴的な構造、あるいは道徳や人倫(Sittlichkeit)の広範な領域に大きな地殻変動や危機が起こるたびに、アンティゴネーは翻案や解釈の焦点となっているように思われる。より具体的に言えば、アンティゴネーという存在は、社会の成立そのものとその存在の問題に触れるような、ある特定の種類の社会的対立(アンタゴニズム)を象徴しているのではないだろうか。したがって、この戯曲の「永遠に」現在的で普遍的な意義をもつ特異性を特定しようとするならば、まず「対立」という概念が第一歩となるかもしれない。ただし、この場合の対立は、二者(または複数)のあいだの敵対や衝突という意味で理解すべきではない。むしろマルクスが「階級的対立」を論じたときの意味で考えるべきなのである。マルクスにとって、階級的対立とは、単に異なる階級やその利害のあいだの( 、、、、)衝突を指すのではなく、それらの階級が成り立つ空間、すなわち資本主義的生産様式の現実そのものの論理に内在するものを意味していた[2]。言い換えれば、アンティゴネーの場合における対立について語ることは、彼女とクレオンのあいだの衝突や敵対そのものに注意を向けるのではなく、むしろ、この衝突のなかで(、、、、)、そしてこの衝突を通じて(、、、、)浮かび上がる何か――それによって、彼らがその衝突のなかに立つ地盤そのものを規定しているひとつの特異なねじれ、あるいは裂け目が露わになる——へと注意を向けることを意図している。これこそが二重の視点であり、したがって、アンティゴネーという存在の力でもある。彼女は単にクレオンに対する敵対のなかで自らの立場を貫くだけでなく、それまで見えなかった社会空間の構成要素や例外、そして弁証法的な緊張関係を私たちに認識させるのだ。私たちに提示されているのは、単に二人の登場人物が現実の要素として対立しているということではない。この現実感(リアリティ)を構成すると同時に、それをあたかも異なる立場が現れ、対立するための中立的な媒介であるかのように見せかけているものの正体を垣間見させるという、あり得ない体験が提示されているのである。それゆえ、『アンティゴネー』を読む・観るという特異な体験を言い表すには、「パララックス・ビュー」――ふだんなら絶対に重ならず、同じ平面に共存するはずのない二つの視点の共存――という用語を用いるのが最も適切かもしれない。まさにソポクレスの戯曲において、それが起こるのだ——二つの視点が出会うのである。

 『アンティゴネー』が偉大なテクストたるゆえんは、「私たちに考えるべき多くのことを与えてくれるから」だとか、「困難な(道徳的)ジレンマを提示しているから」ではない。もしアンティゴネーが自分の求めるものを要求することの是非ばかりを問題とし、それに思考の重心を置きすぎるなら、この戯曲の本質と力を見落としてしまうだろう。アンティゴネーという存在は、まさに彼女の行為と要求そのもの(、、、、)なのであり、それらを通じて暴き出されるのは、彼女自身についての何事かというよりも、彼女が属する秩序や構造の内部にある何かなのである。彼女の行為――ポリュネイケスの遺体に埋葬の覆いを施すこと――とその要求は、この戯曲の始原的な(、、、、)事実(あるいは出来事と呼ぶべきだろうか?)を構成している。確かに彼女の行為には理由があり、彼女自身もそのいくつかを列挙しているが、それでもなお、彼女の行為は絶対的な起点として現れ、そこから過去にも未来にも影響を及ぼしていくのである。この点で、アンティゴネーは幽霊という際立った登場人物を欠いたハムレットのようなものだ。より正確に言えば、『ハムレット』ではすべてが亡霊の出現とその言葉によって始まるのに対して、『アンティゴネー』には、過去の不正を証言するような権威ある亡霊すら登場しない。そこにあるのは、アンティゴネーの主観的かつ主体化をもたらす確信(彼女の「熱い心」)だけである。だからこそ、彼女自身の登場と行為が幽霊のような余韻を残し、戯曲全体を通じて消えることのない幻影のような残像を生み出しているのだ。あるいは、こうも言えるだろう。『私たちに困難な(道徳的)ジレンマを提示し』、『多くの考えるべきことを与えてくれる』のではなく、むしろこの戯曲は私たちに何かを投げつける( 、、、、、、、、、、、、)のだ。それはいったい何なのかを私たちは完全には理解できなくとも、それ自体として存在し、私たちに作用し、私たちを通じて作用し、私たちに見慣れない何か、「不可能な」何かを伝達してくる。それが頭痛を引き起こすとすれば、あれこれのジレンマを考えすぎた結果生じるのではなく、「不具合(グリッチ)」のようなものによって引き起こされる。それは、ひとつのフレームのなかに、現実と、それを構成する内在的なねじれの両方を同時に見るという、ほとんど視覚的な挑戦に近い――それゆえに「パララックス・ビュー」という発想が生まれるのだ。

 したがって、このパララックスにおいて問題となる二つの次元、あるいは視点は、単にアンティゴネーとクレオンのそれではない。とはいえ、彼らの対峙は、私たちが定義しようとしているパララックスの裂け目を明るみに出すうえで大いに助けとなる。また、これは単に、国家権力や国家の法と、それとは別の永遠的で不文律の、倫理的あるいは神的な法との対峙だというだけでもない。ここで実に重要となるのが、アンティゴネーがある場面で言及し、クレオンがそれを侵していると彼女が考える、神的な不文律とは何なのか、その正確な地位を見定めることである。しかし、この問いに踏み込む前に、さらに二つの予備的な言及を加える必要があるように思われる。

 第一に、『アンティゴネー』の物語は、いわゆる「テーバイ三部作」のほかの二作――『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』――を暗に含み、前提としている。これら二つの作品に含まれる重要な要素は『アンティゴネー』という悲劇の核心にあり、切り離すことはできない。物語上は『オイディプス王』、『コロノスのオイディプス』、そしてその後に『アンティゴネー』という順序にもかかわらず、ソポクレスが『アンティゴネー』を最初に執筆したという事実は、他の二作、あるいはその基本的な語りの要素が、当初から《アンティゴネー》という星座の固有の構成要素として内在していたことを明示している。それはまた、アンティゴネーの行為が絶対的な始まりであるという先の指摘を裏付けるものでもある。すなわち、彼女の行為は、歴史に従って生じるのではなく、むしろ(彼女自身の)歴史を内包しているような始まりなのだ。

 第二の指摘は、先の点とも関連するが、クレオンは単に統治者や王、あるいは国家権力の体現者として、この物語の出来事がその支配下で展開するだけの存在ではない、ということである。彼が権力の座につくのは、ふたりの兄弟――ポリュネイケスとエテオクレス(いずれもオイディプスの子)――が互いに殺し合ったあとである。一方の兄弟を称え、もう一方を埋葬の儀から排除するという布告は、彼の数ある布告のひとつにすぎないのではなく、この場合においては、彼の始原的な行為そのものであり、権力の成立と重なり合う行為なのである。これは決して些細なことではなく、多くの含意をはらんでいる。さらにいえば、ここで私たちが問題にしているのは、単なる権力の交代、統治者の交代、一人の王が別の王へと取って代わるというだけの事態ではない。ソポクレス的なより広い視点においては、オイディプス(自らの父であるライオス王をそうと知らぬまま殺し、その地位に就き、母であるイオカステと結婚した)に象徴される、潔白でありながら[3]、しかし同時にまさしく言語に絶するほど「犯罪的」でもある支配から、「文明的」で、ふつうの、通常運転の支配への移行が起きているのである。この地殻変動こそが、ソポクレスの戯曲の核心にあるのだ。

 物語の背景を手短に思い出そう。近親相姦から生まれたポリュネイケスとエテオクレスの二人の息子たちは、オイディプスが追放された後、一年ごとに交代で王権を握る取り決めをしていた。ところがエテオクレスが自身の番を終えても王位を譲らなかったため、ポリュネイケスは軍を起こしてエテオクレスを退位させようとした。その戦いの末、二人は互いに相打ちとなって死に、そこにイオカステの兄クレオンが即位することになる[4]クレオンはポリュネイケスを裏切り者と見なし、葬礼の儀を受けるべきではないと決定した(ジャン・アヌイの翻案『アンティゴネー』では、クレオンはこの決定を、民衆に提示せざるをえなかった「構成的神話」だと皮肉交じりに言及している。彼はまったく適当にどちらか一方を英雄、もう一方を裏切り者に仕立ててみせただけであり、変わり果てた遺体が本当はどちらのものかもわからないのだ、とアンティゴネーに語る。だから、外に放置されている遺骸はひょっとするとエテオクレスのものかもしれないのだ、と。この露悪的な付け足しは、もちろんきわめて近代的なものである。すなわち、支配者たる「われわれ」は、必要な業務の一環としてやらねばならない悪しきことや汚れ仕事を、シニカルに自覚しているのだという再帰的な剰余知識の追加だ。あらゆる政治的リーダーシップにはそうしたことが必要であり、構成的な「汚さ」がつきものなのだという、あたかもこの種の露悪的な認識がより問題性を減らし、より道徳的なものにするかのような認識。こうした論理が現代の社会や政治の文脈でしばしばどのように展開されるかについては、後にあらためて論じることにしたい。)

 繰り返すが、『アンティゴネー』の背景にある主要な転換は、オイディプスとその子孫による支配――恐るべき呪いと無意識の罪が運命を形作ってきた支配――から、クレオンによる「正常(ノーマル)な」支配へと移ることである。また、ここで問題になっているのは、少なくともある側面においては、先史(神話)から歴史への移行、法に属する無意識の罪による支配から、「法の支配」とそれ自身における(、、、、、、、、)排除された無意識的核心への移行であると言うこともできるだろう。しかしこの具体的な場合においては、問題となっているその移行は、クレオンの始原的な過剰および傲慢によって刻印されている――それは「正常な支配」に拭いがたい病理を染み込ませるか、あるいはこの病理を「正常な支配」のまさに核心へと引き込むものなのだ。ここでは、今後も繰り返し用いることになるイメージを使ってもよいだろう――この移行は、次のようなジョークにおいて問題となっている推移や転換に非常によく似ている。「われわれは人喰い人種ではない。最後の一人は昨日食べてしまったからな」

 かくして、『アンティゴネー』で起こることは、通常の社会秩序の成立そのものに暗に含まれている何かに関わっている。それは、きわめて具体的で特異な瞬間に、またその瞬間の強制的な正常化=規範化(ノーマライゼーション)と一般化に、そしてそのことが日常的・通常的に進行し機能している国家権力にもたらす帰結に関わっているのだ。クレオンによる国家権力の扱いには、法に属する無意識の裂け目に対する敬意を踏みにじるようなものが含まれており、アンティゴネーの目に映る暴力の中心点――そしてアンティゴネー自身の暴力とも密接に結びつくその一点――を、私たちはまさにそこに見出すことになるだろう。

 私は以下において、アンティゴネーによって私たちに突きつけられるいくつかの繊細な論点に取り組む(ワークスルー)ことを提案したい(「徹底操作(ワークスルー)(Durcharbeiten)」はフロイトの有名で非常に示唆的な用語でもある)。これらの論点は、繊細で、猛毒を含み、伝染性の、強烈な、心をかき乱すものでありながら、同時に魅惑的でもある――「魅惑的(ファシネイティング)」という語のもつすべての曖昧さとともに。魅惑的なイメージは私たちを惹きつけ、まなざしを捉えるが、同時に私たちの目をくらませ、視界を奪う。ラカンが『アンティゴネー』への注釈で行った多くの強力な洞察のうちのひとつは、まさにこのヒロインの中心的なイメージとしての地位に関わっている。舞台上で上演されるこの戯曲を見るとき、私たちが観客となるのはアンティゴネーとの関係においてのみであり、それ以外の要素に対してはむしろ「聴き手」になるのだと彼は示唆する。アンティゴネーだけが必然的にイメージとして浮上し、目のくらむような輝きとともに――「崇高な美」を帯びて立ち現れる。それはもちろん、彼女の身体的外見とは何の関係もない。

 アンティゴネーに関しては、そうした繊細な論点がいくつか存在する。本書では、「暴力と不文律」、「死と葬礼」、「近親相姦と欲望」という、互いに強く関係しあう見出しのもとにおおよそ位置づけられるだろう三点を取り上げ、論じていく。あるいは別の、パララックス的な視点から見れば、それらは「テロル」、「生ける死(アンデッドネス)」、「昇華」と言い換えることができるだろう。

 

[1] [訳注]『アンティゴネー』88行目。ギリシャ語原文だと  « θερμὴ ἐπὶ ψυχροῖσι καρδίαν ἔχεις. »。ズパンチッチがここで引いている“You have a hot mind over chilly things,”はElizabeth Wyckoffの訳だが、ほぼほぼ直訳と考えていい。ただ、ギリシャ語の καρδία (kardía) は「心」や「精神」を意味し、「知的な思考」よりも感情や情熱の座としての意味合いが強いため、"mind"(理性・思考)よりも "heart"(心・情熱) のほうが適切だろう。

[2] [訳注]マルクスの「階級的対立(Klassengegensatz/ class antagonism)」は「階級闘争(Klassenkampf / class struggle)」とは異なる概念として使われることが多い。"antagonism"(対立)は、階級社会そのものに内在する根本的な矛盾や対立構造を、"class struggle"(階級闘争)は、こうした対立が具体的な歴史的・政治的運動として表れる局面を指す。

[3] [訳注]オイディプスが自身の犯した内容にも関わらず潔白である――罪を自ら背負うことすらできる立場にないことについての分析は『リアルの倫理――カントとラカン』第8章「悲劇、そして精神分析の倫理」参照のこと。

[4] [原注]物語のこの部分は、アイスキュロスの悲劇『テーバイ攻めの七将』や、エウリピデスの『嘆願する女たち』『フェニキアの女たち』の始動点にもなっている。エテオクレスが当初の取り決めを破って王位を奪い、その結果としてポリュネイケスの攻撃を招いたことは疑いようがない。また、他のこれらの戯曲から見ても、クレオンがポリュネイケスに科した処罰――その遺体をさらしたまま放置すること――が、人間の法にも神の法にも準拠しない、いわば過剰なものであることもまた疑いない。

 

 

*1:『リアルの倫理』については、小泉義之氏の書評を以下のWebアーカイブから見ることができる。いわく、「本物である。ジジェクが序文を寄せて、「私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ!」と書いているが、ジジェクはマジである。カント論とラカン論においても、文学論においても、本物である。現代思想が閉塞していると感じている人、そこから抜け出したいと思っている人に、広く読んでほしい書物である。」私もまったくの同感だ。

https://web.archive.org/web/20160313201801/https://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/2009_2_2.doc

*2:アメリカのラカン派の批評家、ジョアン・コプチェクもジジェクとのスタンスの違いにおいて同様の語られ方をすることは多い。『〈女〉なんていないと想像してごらん』訳者あとがき参照

*3:ちなみに本書について翻訳権は取得していないため、序章以降を公開する予定もないし、申し入れがあればこの翻訳についても非公開とする予定である

文体の舵をとれ 〈練習問題⑧〉声の切り替え

問一:三人称限定視点を素早く切り替えること。600-1200文字の短い語り。練習問題⑦で作った小品のひとつを用いてもよいし、同種の新しい情景を作り上げてもよい。同じ活動や出来事の関係者が数人必要。

 複数のさまざまな視点人物(語り手を含む)を用いて三人称限定で、進行中に切り替えながら物語を綴ること。

 空白の挿入、セクション開始時に括弧入りの名を付すことなど好きな手法を使って、切り替え時に目印をつけること。

「水を汲みにいこう」

 ネムの言葉はいつもどおり唐突だった。バケツの柄に細い指をかけて、自分の思いつきに満足するように薄く微笑む。彼女の手のなかで揺れるブリキのバケツは、賛成を示すように小気味よい軋みをあげた。ネムはなんでも思いつきで決めてしまうのに、それがずっと前から決まっていたことだったかのような雰囲気をつくってしまう。彼女のまわりの世界を――たとえばいまならそのボロいバケツだ――味方につけてしまうところがある。リーサは彼女のそんなところが好きだった。「なんで」一応聞いてみる。「そろそろ必要になるかもしれないし」そう語る声はふわふわしているのに、ネムの言葉には預言めいた不思議な説得力がある。ちょっとだけ。たしかにそうかも知れないと思ったので、リーサはそのままネムについていくことにした。どのみち暇しているのだ。

 

 ネムの手はバケツを握りながら、早くもポンプに想いを馳せていた。ここから歩いて五分ちょっとの中腹に小さな井戸がある。彼女はその井戸で水を汲むのが――とくにその感触が――好きだった。ポンプを上下させたときに手に伝わる振動の、自分の内側から水が湧き上がってくるような、なんともいえない心地よさがいいのだ。井戸に行くのも久しぶりだったからか、手がうきうきして遊んでしまっている。「ねえリーサ」隣を歩いているリーサに声をかける。「なに」彼女はネムのほうは見ずに短く応える。もっぱら木々に結びつけられた紐に関心があるようだった。ネムはとっておきの提案をしてみる。「これからしりとりをしよう」「うん」

 

 少年は目を開けてしばらく、自分の状況を理解することができなかった。わずかに湿った土の壁が目の前にあって、身体の下には乾いた葉っぱや草が敷き詰められていた。身を起こして振り向いても光景は変わらず、見上げると土の壁ははるか頭上の高さまで続いていた。どうやら自分は誰がつくったともしれない落とし穴に落ちてしまったらしい、そう気づくのにさして時間はいらなかった。どうしようか。ひとまずどこか登れないか試そうとした矢先、少年は声が近づいてくるのに気づいた。若い女性の声、ひとりではなくてふたりだろうか。助けを呼ぶ声を出そうとして、焦りで思わずつばを飲み込んでしまう。息を整え、通りがかりの女性たちに声を届けようと上を向いた瞬間、少年の顔に水が叩きつけられた。思わず思考が止まる。気管に水が入ってしまって噎せる。噎せながら、目元を拭う。意味がわからなかった。混乱しながら、改めて頭上を見上げた少年の目に映るのは、土の壁にまるく縁取りされた白い曇り空だけだった。

「身体、冷えないかな」ネムに聞いてみる。

「うーん、たしかに」そうかも、といってネムはゆらゆらとバケツを揺らす。軽くなったバケツの軽快な動きは、どこか嬉しそうに見える。

「ペットボトルの方がよかったかな」今度はリーサが「そうかも」と返す。

「ねえ、今日の夜ごはんってなに?」

「コロッケ」

「コロッケかぁ」

 リーサはコロッケ、コロッケと口のなかで反芻させた。いいね、そうつぶやいて軽く伸びをする。

 山を下りるふたりの歩調はゆっくりだった。

 

問二:薄氷

600-2000文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。

「水を汲みにいこう」

 ネムの言葉はいつもどおり唐突だった。バケツの柄に細い指をかけて、カラカラとブリキ製の小気味よい音を鳴らす。自分の思いつきに満足するように薄く微笑むネムに、リーサはとりあえず「なんで」とだけ返す。「そろそろ必要になるかもしれないし」そう語る彼女の目は謎の確信に満ちていた。リーサは、ネムがときどき持ちかけるこの種の提案が好きだった。きっと大した意味もなくて、さしたる理由もない。なのに、なぜか迷いがない。よくわからない説得力をもったネムの言葉についていって、けれど後悔したことは一度もなかった。そう、けっこう楽しいのだ。ん~~~と判別のつかない返事をして立ち上がったリーサを横目に、ネムは井戸のあるほうへと足を向けた。ぺたぺたと歩きながら、ネムの手は早くもポンプへと想いを馳せていた。ここから歩いて五分とちょっとの中腹に小さな井戸がある。その井戸で水を汲むときの感触が、ネムは好きだった。ポンプを上下させたとき手に伝わる振動には、井戸の底からではなくて、自分の内側から水が湧いてくるような、どこかそういう不思議な感覚がある。思い出しては手が勝手にわきわきとしてしまっていて、下を向いてはブリキのバケツもどこか暇そうだった。「ねえリーサ」隣を歩いているリーサに声をかける。「なに」彼女はネムのほうは顔を向けずに短く応える。もっぱら木々に結びつけられた紐に興味が向いているようだった。ネムはとっておきの提案をしてみる。「これからしりとりをしよう」「うん」

 「……――パナマ」「マレーシア」「アメリカ」「カーボベルデ」「なにそれ」「ちっちゃい島国」「へ~ なにがあるの」「知らない」

 複数の少女と思しき声が聞こえてきて、思わず少年は安堵した。つい数分前、意識が戻ってすぐに少年は自分が落とし穴に落ちたのだということを理解した。ひと気のあまりない山で、誰がつくったともしれない落とし穴に落ちてしまっている。それはあまり考えたくない現実で、ひとの声が聞こえた、ひとが近くにいるというのはまさに渡りに舟だった。助けを呼ぼうとして、焦りで思わずつばを飲み込んでしまう。息を整え、通りがかりの少女たちに声を届けようと上を向いた瞬間、少年の顔に水が叩きつけられた。思わず思考が止まる。気管に水が入ってしまって噎せる。噎せながら、目元を拭う。意味がわからなかった。混乱しながら、改めて頭上を見上げた少年の目に映るのは、土の壁にまるく縁取りされた白い曇り空だけだった。

「身体、冷えないかな」ネムに聞いてみる。

「うーん、たしかに」そうかも、といってネムはゆらゆらとバケツを揺らす。軽くなったバケツの軽快な動きは、どこか嬉しそうに見える。

「ペットボトルの方がよかったかな」今度はリーサが「そうかも」と返す。

「ねえ、今日の夜ごはんってなに?」

「コロッケ」

「コロッケかぁ」

 リーサが隣でコロッケ、コロッケと何度か繰り返す。いいね、そうつぶやいて軽く伸びをしたリーサにつられて、ネムも軽く両腕を広げて伸びをする。全身をほどよい疲れがめぐって、どちらのものか、ぐうと腹の音が鳴った。

 山を下りるふたりの足どりはゆっくりだった。

 

 

 

メモ

・合評会のときに「意味がわからない」と悩まれててびっくりしたのだけど、この物語に特別な意味はないです。書かれていることがすべてというのは書かれていることがすべてということで、裏の意味やイースターエッグみたいなものはない。

・悪意があるようなキャラクター造形ではなさそうなキャラクターが悪いことっぽいことを意図してか意図せずかしている、という留保がたくさん必要な物語になっていて、それが混乱を招いているようだった。そういう物語もありますよね~と話したら、なんとなく伝わったようでよかったです。

・最後にポンプで水を汲んだのはいつですか? 自分はもう10年は汲んでないと思うけど...... もっとか?

・問二はべつのなにかを書こうとしてけっきょく締め切り間際で問一を流用して書き直したので、そこまで書き分け(課題に対して、というより、違う言葉で同じ出来事を描くという意味で)にはこだわれなかった。ル・グウィンが「三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがち」と言っている形はどうにか回避できている気がするけど、どうだろう。

点、線、死線、マシンガン――北野武『ソナチネ』について

※映画の視聴を前提に書かれています。

 

 緊張と弛緩、不発、遊戯としての発砲。『ソナチネ』において多く挟まれる「点としての死」のモチーフは、少しずつ毒が回っていき体が思うように動かなくなるような、そうした緩やかに死へと向かっていくことを予期させる役割を担っている。澱のように積もった死の感覚は、死をあまりに身近なものにする。点としての死は日常における非日常であり、日常へと回帰する弾性力のようなものをもっている。遊びとしてのロシアンルーレットにおける「不発」や落とし穴といった「ちょっとした死(まがい物の死)」は、むしろ死なずにいる今の生を思い起こさせるような面があり、死への接近は(往々にして臨死体験がスピリチュアルな生の称揚と結びつくように)生への刺激としての作用もある。しかし使い続けたばねがその元に戻ろうとする効果を失ってしまうように、ちょっとした死に対して慣れすぎてしまうと、そのすぐ先にある本当の死に対してまでも無感動になってしまう。作中に「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだよ」という印象的な台詞があるが、村川は死ぬのを怖がりすぎて死にたくなって死んだのではない。自らの今生きている生にあまりにも死が馴染みすぎたために、死と生の境界が無感動なまでに曖昧になり、それ故に死んだのである。

 とすれば一見衝撃にも思えるラストの村川(北野武)の自殺は突然のものであった訳ではない。それを一番象徴しているのは、村川と幸が試し撃ちをし、その後北島組・阿南組の会合を襲う際に使われることになったマシンガンだろう。

 マシンガンは「試し撃ち」をすることはあれど、それは「本番」が想定されるからこそ成り立つものであって、本来の使用方法=(大量)殺人を常に前提とした銃器といえる。マシンガンには投げられたフリスビーを撃ったりロシアンルーレットに使ったりといった「遊戯」としての使用法は存在せず、あくまでも「殺す」ための使用法だけがある。加えてその発射間隔の短さにも注目するべきだろう。拳銃は一発一発が点として存在しているが、マシンガンの発射間隔の短さは点と点の連続性があり、ここには連続としての死が存在する。連続としての死とはつまり本物の死に他ならず、遊びにも使えうるような拳銃のちょっとした死とは区別されうるものだ。使用する武器を拳銃からマシンガンにシームレスに移行した村川は、その時点で生と死の境界を超えていたのである。

 正面から最後に村川がカメラに捉えられるのは、最終盤に彼がマシンガンを放つシーンだ。そこでは、絶え間なく撃たれるマシンガンの発光は断続的な光ではなく、ほとんど連続的な光として存在する(映画のフレーム数も相まって理念的な連続的な光を画面の上において完成させていると言えるだろう)。この連続的な光を外から見て良二は目を見開き、逃げ帰る。しかしこの光を発生させる当の主体であり、その場でその光がもたらす多くの死を直視している村川は全くの無表情なのである。この死への馴化は結末での自殺を先取りしている。

 最後に本作における舞台の構造についても確認しておこう。「本州→沖縄→本州」という場所の移動があった『3-4X10月』は、本州という戻るべき日常に対して非日常としての沖縄があるという二層構造になっていた(さらにメタ的な構造にもなってはいたが)。それがソナチネにおいては「本州→沖縄(都心部)→沖縄の片田舎→沖縄(都心部)」と、アジール的な意味合いを果たした沖縄の片田舎も入った三層構造になっていることにも注目する必要がある。本来のミッションであれば本州から沖縄に行って戻ってくるという二層だけの関係において主人公たちの行動は完結する予定であった。それが沖縄の都心部から片田舎へ逃げ潜伏するという行動を取ることによって第三の層が物語に登場したことで、3-4X10月であれば「本州から沖縄に行って戻ってくる」で済んでいた「行きて帰りし物語」の型は、「沖縄の都心部から片田舎へ行きまた都心部に戻りラストの銃撃戦をする」と、沖縄の中においても行われているのである。しかしそうであれば本来「沖縄の片田舎から都心部へ」と「沖縄の都心部から本州へ」という2ステップで「日常」へと戻ってこなければならないはずだが、村川においては前者しか回帰は行われない。しかもその回帰においてなされたのは「死」そのものの場としての銃撃戦であり、村川においては「戻るべき日常への回帰」の一部としての回帰ではなかった(良二は「沖縄の片田舎から都心部への回帰」と「上記の銃撃戦からの逃避」において2ステップの回帰は行われており、これは良二だけは日常へと戻れたことを示している)。沖縄の都心部から本州への道中でではなく、また片田舎の拠点へと向かう道すがらで村川が自殺したことにも、日常への回帰の不可能性という村川の死への膠着が示されているのである。(2020/12/6)

文体の舵をとれ 〈練習問題⑦〉視点(POV)(ノクチル)問二・問三

四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

 

※問一(円香視点・透視点)は→こちら

 

問二:遠隔型の語り手

 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。

 

 少女たちの二曲目の演奏が終わって、講堂に観客たちの拍手がぱらぱらと響く。演奏した四人の少女たちの表情にも、観客の表情にも、納得や満足といった類の感情は見受けられない。講堂はすぐに静まり返る。先頭でギターを演奏していた少女が、後ろをふりかえって二言三言なにかを話す。ピアノを演奏していた少女が、何か突拍子もないことを言われたかのような相槌を打って、ドラムを叩いていた少女が重ねて何かを言う。ひそやかな、けれど楽しそうな雰囲気をもったその会話で、少女たちのなかで何かが決まったようだった。
 ベースの少女とギターの少女が目を合わせて、軽く頷きあう。一拍おいて、ギターが先行して三曲目のイントロを奏ではじめる。三小節目でほかの楽器も一気に流れ込んで、講堂をふたたび音が満たしていく。一生懸命に、そして楽しそうに演奏する少女たちには、さきほどまでの緊張は見られなかった。のびのびと紡がれる音が、声が、ひとつの全体〈アンサンブル〉をかたちづくってゆく。バスドラムが振動する。彼女たちの汗がステージに落ちる。キーボードの打鍵音が四人のあいだを反響する。ベースのシールドがステージの上を波打つ。ギターの振動が、彼女たちの声が、真空管を通して室内を拡散する。その壁を突き抜けて、どこまでも遠くに響き渡ろうとするように。
 演奏が終わって頭を下げる少女たちに、ぱらぱらと拍手が響き渡る。けっして大歓声には届かないものの、たしかに伝わったことを教えるような、そうした拍手を浴びながら、少女たちは、いまにも笑い出しそうな笑顔をたたえている。

 

 

問三:傍観の語り手

 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

 

 二曲目の演奏が終わって、周囲からぱちぱちと拍手が上がる。それに釣られるようにして、私も軽く両手を叩いた。このライブ、いつまで続くのかな、などと考えながら。
 ――きれいな子たちだな。それが最初の印象だった。
 例によって私たちには当日に知らされた慰問ライブにやってきたのは、楽器を携えた四人の女の子たちだった。
「えー、ノクチルっていいます。これから演奏をして、歌います。……あー、アイドル、やってます。ふだんは」
 たぶんリーダーなんだろう女の子がそういって、さっそく演奏の準備をしはじめる。マイペースに準備を進める少女たちを眺めながら、さっきの女の子はなんていう名前なのだろう、などと考えていたらいつの間にか準備は終わっていた。自己紹介の最後、きっと無意識につけたされたのだろう「ふだんは」に引っかかりを感じつつ、始まった演奏を聞いてすぐに理解した。初心者の演奏だった。
 二曲目が終わって彼女たちが小休憩に入る。このライブ、早く終わらないかな。無意識にそう考えていた。初心者なんだろうし、緊張もあるのだろうけれど、演奏はバラバラだった。焦りが表情に、演奏に出ていた。彼女たちがきれいな子たちであることを差し引いても、見ていて楽しいものでは、あまりなかった。
 彼女たちがなにか話しているのがわずかに聞こえてくる。内容までは聞こえない。けれど、楽しそうな雰囲気が、講堂の床をはずんでにわかに広がってゆく。自己紹介をしたギターの女の子がこちらを振り返る。それからすこし俯いて、目を伏せて、歌うように。ピックが弦をはじいて、新しい音があふれ出す。三曲目が始まった。
 ――何があったのだろう。演奏を聴きながら思う。さっきまでの演奏とは全然違っていた。息があっている。音がのびのびとしている。声が――そう、楽しそうにしている。魔法がかかったように、全員の音がぴったりとあっていた。軽やかに紡がれるギターの豊かな倍音が、ハイハットの弾んだリズムが、柔らかなピアノの三和音が、慎重に全体を支えるベースの低音が、きれいに混ざりあって、ひとつの音楽になっている。彼女たちの歌になっている。
 ああ、四人とも仲がいいんだな。ふと納得する。お互いに目配せをしながら楽しそうに演奏をする彼女たちは、私たち観客を見ているようで、どこか内側へ向いた密やかな遊びのようで。彼女たちのもつ絶妙な雰囲気に魅了されながら、私はいつの間にか、ギターの少女の歌うような演奏に釘付けになっていた。きっと楽譜通りではあり得ない演奏、定番を外れたコードにカッティングとアルペジオの緩急、思いつきのように挟まるフィルインは彼女自身のセンスなんだろう。けれどそれは四人の演奏のなかできれいに調和して、同時にどこまでも自由だった。
「ありがとうございましたー。」
 すべての演奏が終わり、そういって軽く頭を下げた彼女たちは、そそくさと撤収の準備を始めた。一瞬、顔を上げたギターの彼女と目があったような感覚になる。そのきれいな瞳は、いったいこれからどんなにたくさんの世界を目にすることになるのだろう。私はきっと知ることはできないけれど、それを知りたいと思う。彼女はどんな未来を、音を紡いでいくのだろう。
 ――けっきょく最後まで名前はわからなかったけれど。いま、彼女は間違いなくアイドルで、私はそのファンのひとりだった。

 

 

メモ

・問二は〈壁にとまったハエ〉のPOVを書く課題。ただ安直に誰でもない客観的な視点で書こうとすると、たんなるト書きになってしまう危険性がある。最初は多少悩んだものの、どこに注目して何を記述するかで、十分に迸らせることができることがわかった。

・たとえば「バスドラムが振動する(中略)」のあたりの箇所など、楽器の音そのもの(がどのようなものか)を記述してもよかったのだが、キーボードの打鍵音だとか、音そのものではなくそれに付随する音ともいえない音とかを書くことによって中心で鳴っているはずの音を外堀から記述するような、そういう多少トリッキーなことも試してみた。

・壁にとまったハエである以上、その視点は彼女たちの名前も知らないはずだろう、ということで固有名詞を使わなかったのだが、さっきの音以外の音みたいな話もそうだけど、そういう「外側だけを書くことで内側を書く」みたいなことがこの視点で書く面白さに繋がってくるのだろうと思う。

・合評会では「固有名詞が使われていないことで、二次創作が二次創作でなくなっているような感覚があって、そこが面白い」みたいな感想をもらい、面白い感想だなと思った。

・問三は「プロデューサー視点で書くと思った? 残念! 観客の囚人A視点でした!」みたいな感じ。けっこう筆が乗って書くのにはあまり困らなかった。

・少女たちが(アイドルとして)ライブを成功させる話でもあり、ひとりの人間がひとりのアイドルのファンになる話、でもあり、という感じに、これまでとはまったく別の視点から語り直しながら上手くまとめられたような気がします。

・合評会ではこの問三で書いた文章について、構成も褒めてもらえたのでよかったです。

・問四は落としました