cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

文体の舵をとれ 〈練習問題⑧〉声の切り替え

問一:三人称限定視点を素早く切り替えること。600-1200文字の短い語り。練習問題⑦で作った小品のひとつを用いてもよいし、同種の新しい情景を作り上げてもよい。同じ活動や出来事の関係者が数人必要。

 複数のさまざまな視点人物(語り手を含む)を用いて三人称限定で、進行中に切り替えながら物語を綴ること。

 空白の挿入、セクション開始時に括弧入りの名を付すことなど好きな手法を使って、切り替え時に目印をつけること。

「水を汲みにいこう」

 ネムの言葉はいつもどおり唐突だった。バケツの柄に細い指をかけて、自分の思いつきに満足するように薄く微笑む。彼女の手のなかで揺れるブリキのバケツは、賛成を示すように小気味よい軋みをあげた。ネムはなんでも思いつきで決めてしまうのに、それがずっと前から決まっていたことだったかのような雰囲気をつくってしまう。彼女のまわりの世界を――たとえばいまならそのボロいバケツだ――味方につけてしまうところがある。リーサは彼女のそんなところが好きだった。「なんで」一応聞いてみる。「そろそろ必要になるかもしれないし」そう語る声はふわふわしているのに、ネムの言葉には預言めいた不思議な説得力がある。ちょっとだけ。たしかにそうかも知れないと思ったので、リーサはそのままネムについていくことにした。どのみち暇しているのだ。

 

 ネムの手はバケツを握りながら、早くもポンプに想いを馳せていた。ここから歩いて五分ちょっとの中腹に小さな井戸がある。彼女はその井戸で水を汲むのが――とくにその感触が――好きだった。ポンプを上下させたときに手に伝わる振動の、自分の内側から水が湧き上がってくるような、なんともいえない心地よさがいいのだ。井戸に行くのも久しぶりだったからか、手がうきうきして遊んでしまっている。「ねえリーサ」隣を歩いているリーサに声をかける。「なに」彼女はネムのほうは見ずに短く応える。もっぱら木々に結びつけられた紐に関心があるようだった。ネムはとっておきの提案をしてみる。「これからしりとりをしよう」「うん」

 

 少年は目を開けてしばらく、自分の状況を理解することができなかった。わずかに湿った土の壁が目の前にあって、身体の下には乾いた葉っぱや草が敷き詰められていた。身を起こして振り向いても光景は変わらず、見上げると土の壁ははるか頭上の高さまで続いていた。どうやら自分は誰がつくったともしれない落とし穴に落ちてしまったらしい、そう気づくのにさして時間はいらなかった。どうしようか。ひとまずどこか登れないか試そうとした矢先、少年は声が近づいてくるのに気づいた。若い女性の声、ひとりではなくてふたりだろうか。助けを呼ぶ声を出そうとして、焦りで思わずつばを飲み込んでしまう。息を整え、通りがかりの女性たちに声を届けようと上を向いた瞬間、少年の顔に水が叩きつけられた。思わず思考が止まる。気管に水が入ってしまって噎せる。噎せながら、目元を拭う。意味がわからなかった。混乱しながら、改めて頭上を見上げた少年の目に映るのは、土の壁にまるく縁取りされた白い曇り空だけだった。

「身体、冷えないかな」ネムに聞いてみる。

「うーん、たしかに」そうかも、といってネムはゆらゆらとバケツを揺らす。軽くなったバケツの軽快な動きは、どこか嬉しそうに見える。

「ペットボトルの方がよかったかな」今度はリーサが「そうかも」と返す。

「ねえ、今日の夜ごはんってなに?」

「コロッケ」

「コロッケかぁ」

 リーサはコロッケ、コロッケと口のなかで反芻させた。いいね、そうつぶやいて軽く伸びをする。

 山を下りるふたりの歩調はゆっくりだった。

 

問二:薄氷

600-2000文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。

「水を汲みにいこう」

 ネムの言葉はいつもどおり唐突だった。バケツの柄に細い指をかけて、カラカラとブリキ製の小気味よい音を鳴らす。自分の思いつきに満足するように薄く微笑むネムに、リーサはとりあえず「なんで」とだけ返す。「そろそろ必要になるかもしれないし」そう語る彼女の目は謎の確信に満ちていた。リーサは、ネムがときどき持ちかけるこの種の提案が好きだった。きっと大した意味もなくて、さしたる理由もない。なのに、なぜか迷いがない。よくわからない説得力をもったネムの言葉についていって、けれど後悔したことは一度もなかった。そう、けっこう楽しいのだ。ん~~~と判別のつかない返事をして立ち上がったリーサを横目に、ネムは井戸のあるほうへと足を向けた。ぺたぺたと歩きながら、ネムの手は早くもポンプへと想いを馳せていた。ここから歩いて五分とちょっとの中腹に小さな井戸がある。その井戸で水を汲むときの感触が、ネムは好きだった。ポンプを上下させたとき手に伝わる振動には、井戸の底からではなくて、自分の内側から水が湧いてくるような、どこかそういう不思議な感覚がある。思い出しては手が勝手にわきわきとしてしまっていて、下を向いてはブリキのバケツもどこか暇そうだった。「ねえリーサ」隣を歩いているリーサに声をかける。「なに」彼女はネムのほうは顔を向けずに短く応える。もっぱら木々に結びつけられた紐に興味が向いているようだった。ネムはとっておきの提案をしてみる。「これからしりとりをしよう」「うん」

 「……――パナマ」「マレーシア」「アメリカ」「カーボベルデ」「なにそれ」「ちっちゃい島国」「へ~ なにがあるの」「知らない」

 複数の少女と思しき声が聞こえてきて、思わず少年は安堵した。つい数分前、意識が戻ってすぐに少年は自分が落とし穴に落ちたのだということを理解した。ひと気のあまりない山で、誰がつくったともしれない落とし穴に落ちてしまっている。それはあまり考えたくない現実で、ひとの声が聞こえた、ひとが近くにいるというのはまさに渡りに舟だった。助けを呼ぼうとして、焦りで思わずつばを飲み込んでしまう。息を整え、通りがかりの少女たちに声を届けようと上を向いた瞬間、少年の顔に水が叩きつけられた。思わず思考が止まる。気管に水が入ってしまって噎せる。噎せながら、目元を拭う。意味がわからなかった。混乱しながら、改めて頭上を見上げた少年の目に映るのは、土の壁にまるく縁取りされた白い曇り空だけだった。

「身体、冷えないかな」ネムに聞いてみる。

「うーん、たしかに」そうかも、といってネムはゆらゆらとバケツを揺らす。軽くなったバケツの軽快な動きは、どこか嬉しそうに見える。

「ペットボトルの方がよかったかな」今度はリーサが「そうかも」と返す。

「ねえ、今日の夜ごはんってなに?」

「コロッケ」

「コロッケかぁ」

 リーサが隣でコロッケ、コロッケと何度か繰り返す。いいね、そうつぶやいて軽く伸びをしたリーサにつられて、ネムも軽く両腕を広げて伸びをする。全身をほどよい疲れがめぐって、どちらのものか、ぐうと腹の音が鳴った。

 山を下りるふたりの足どりはゆっくりだった。

 

 

 

メモ

・合評会のときに「意味がわからない」と悩まれててびっくりしたのだけど、この物語に特別な意味はないです。書かれていることがすべてというのは書かれていることがすべてということで、裏の意味やイースターエッグみたいなものはない。

・悪意があるようなキャラクター造形ではなさそうなキャラクターが悪いことっぽいことを意図してか意図せずかしている、という留保がたくさん必要な物語になっていて、それが混乱を招いているようだった。そういう物語もありますよね~と話したら、なんとなく伝わったようでよかったです。

・最後にポンプで水を汲んだのはいつですか? 自分はもう10年は汲んでないと思うけど...... もっとか?

・問二はべつのなにかを書こうとしてけっきょく締め切り間際で問一を流用して書き直したので、そこまで書き分け(課題に対して、というより、違う言葉で同じ出来事を描くという意味で)にはこだわれなかった。ル・グウィンが「三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがち」と言っている形はどうにか回避できている気がするけど、どうだろう。