cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

文体の舵をとれ 〈練習問題⑥〉老女

今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。
一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

 

一作品目:一人称、現在時制のみ
 こすり合わせた指にぬめり気を感じる。ひび割れた肌を冷たい水が刺す。たるんだ皮膚、骨張った指先、それらの白に混ざり込むように、深く皺に入り込んだ赤。はやる心臓を落ち着かせるように、念入りに、念入りに手を洗う。指をこする。それでも水の流れを肌に感じていると、少しづつ心が落ちついていくのを感じる。いつから、冷静になるために手を洗うことを覚えたのだろう。思い出したように、ふと、顔をあげて鏡を見る。
 昔の自分が映っている。まだ若かった自分が映っている。きめ細かで弾力のある手のひらを、伸ばして整えた爪を、静脈が綺麗に見える血色のいい手の甲を、流れる水に浸している。いま手を洗っているのは、前回のデートの教訓だ。ほんとうに、今日子ったら酷いんだから! 私を赤面させるようなことを臆面もなく言っておいて、私が頭を冷やそうと、駆け込んだ公衆トイレの洗面所で思わず顔を洗ったらメイクが落ちちゃって、それをあんなに笑うなんて! ねえ、理子、女の子はデート中顔は洗っちゃだめなんだ。化粧直しの時間がないならね。手を洗うといい。そう笑いながら言われた言葉をいま実行しているのは、きょうもまた今日子が変なことを言うからで。思い出して、また顔が赤くなりそうになる。もう、平静に見えるよね? 小さくそういって鏡を覗き込む。
 鏡には老いた私が映っている。目もとを腫らして、手を洗っている。とうに手は冷たくなって、もうすぐ芯まで冷えて痛みに変わろうとするところなのに、いまだに汚れは落ちない。果たして落ちていいのかもわからない。
 ——どうして手を洗ってるの。
 今日子にそう聞かれたことがある。新婚初夜に、同じこの洗面所で。深みのある、あの優しい声色で。視線を上げる。鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから抱きしめられる。重さを、熱を、息遣いを感じる。鼓動を感じる。やわらかな声は私の心臓に直接、さっき交わした約束をいつか、守れなくても大丈夫だと伝えているように思えて、
 ——そんなことないよ。
 力強く、声に出す。いつかそのときが来たら、きっと私はあなたを。
 鏡を見る。今日子と目が合う。絡み合う視線のなかに、遠い未来の約束をする。しっかりと、固く手を結ぶ。
 鏡を見る。私ひとりが映っている。約束を果たして、遠い過去の記憶を辿っている。最後の涙が頬をつたってシンクに落ちた頃にはもう、流れつづける水は、私の手から彼女の血をすっかり洗い流している。
 

 


二作品目:三人称、〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制
 洗面台のシンクを底へと流れていく水には濃い赤が混ざっていた。緩慢に洗い流しながら、彼女は自身の手を見つめた。骨張った指、くすんだ指環、深く刻まれた皺に入り込んだ、粘性のある赤。まだ早鐘を打つ彼女の心臓に、水は冷たかった。
 ずっと昔から覚悟はできていると思っていた。けれど、本当の意味では覚悟などできていなかったのだった。彼女はいまになってそれを痛感した。どこかで、もう残り少ない老い先を、このまま一緒に終わらせられるものと期待していた。甘かった。
 体温を、熱を奪っていく水に、けれど何か、彼女は懐かしさを感じてもいた。忘れていた遠い昔の記憶、彼女はよく手を洗っていた。汚れを落とすためではなく、気を落ち着かせるために。彼女はふと、顔をあげた。
 鏡には彼女が映っている。若いころの彼女が映っている。精一杯のおめかしをして、おろしたてのコートを着て、艶のある手を流水に浸している。頬がほんのり赤いのは別に、チークを塗りすぎたわけではない。
 ――まったく、今日子ったら。
 小さく呟く。彼女が手を洗っているのは、ガールフレンドのアドバイスによるものだ。気分を落ち着かせるには、手を洗うといい。単純明快だ。顔を洗うんじゃなくてね、みたいな余計な言葉がなかったり、そもそも顔を赤くさせたのがアドバイスした本人じゃなかったりすれば、もっといい。いろいろと思い返してはまた赤面しそうになって、もう平静に戻ったはずと、彼女は鏡を見返す。
 鏡に映る彼女は老いていた。目もとを腫らして、手を洗っていた。思い出は少しづつ蘇って、彼女のまわりを巡っていた。あのときも、この洗面所で手を洗っていたのだった。ふたりがほんとうの意味で結ばれた日。遠い未来の約束をした日。
 ――どうして手を洗ってるの。
 顔をあげると今日子が映っている。どこまでも深い黒の瞳は、鏡越しに、まっすぐと彼女を見つめている。「だって——」「頭を冷やすため?」「う、うん……」ふたりして、くすりと笑う。
 ――やっぱり、重荷だったかな。
 後ろから彼女を抱きしめながら、今日子がささやく。声色は優しく、けれどその優しさにはどこか悲観があるように彼女の胸に響く。もっと頼ってくれていいのに。もっとわがままでいいのに。
 ――そんなことないよ。
 だから声に出して、彼女は今日子の言葉を否定する。ふたりの選択を肯定する。
 彼女は鏡を見る。ふたりが映っている。無数の未来が開かれている。終わり方はきっとひとつでも、いつか私が今日子を殺めるその日まで、私たちはふたりなのだと、繋いだ手の温かさに、彼女は確信する。
 彼女は鏡を見た。彼女はひとりだった。ひとりになってしまった。刻んだ皺、低くなった目線、狭くなった視界。彼女は自分の手を眺めた。綺麗に洗い流してしまった手には、もはや何も残っていないように見えた。くすんだ指環の裏側、指とのあいだに入り込んだ赤は、誰にも気づかれずに、ただ、その色を残していた。

 


メモ

・さいしょに書いておくと、参考にいろいろ先人の書き方を調べるなかで読んだ鷲羽さんという方の実作にかなり影響を受けています。これは本当にすごい。今回はこういうの書けたらいいな〜と思って書きました。まあ到底、というところですが。
・今回のプロットと形式について。
 ・主人公は二回以上「思い出す」必要があるわけだけど、明示的に思い出させるのも野暮ったいので、それ以外の手法も使いたい
 ・語り落としに加えて、一人称視点と三人称視点の差で読み方が変わるような書き方ができると嬉しい
あたりをざっくり考えながらお風呂に入ったところ、プロットが一気に降ってきました。お風呂に鏡があってよかったです。
・一作品めの方は過去時制のみと現在時制のみの両方で軽く書いてみて、時間の転換がより鮮やかになったので現在時制のみで書くことにした。合評会で「映画てきな効果があった」と言われ、意図したところだったのでにこにこに。
・しかしながら、二作品めで同じ物語をほとんど変わらない視点で(けれど異なる仕方で)語り直すというのはかなり苦しかった。文章に固有のリズムや流れをねじ曲げる必要があるのに、しかしプロットはそのまま、というのが難しい。というか苦しい。いまを過去時制、過去を現在時制というあまりない書き方は勉強になりこそすれど別に書く分には困らなかったものの、どう一作品めと差異をつくるかはかなり悩んだ。結果として説明てきな内容を増やす、一人称ではなかった指環を生やすことで「主人公には意識の外にあるが重要な意味を持つモチーフ」の対比をつくることはできたが、それは果たして実効的なのか? は読者に委ねるところ。
・今回の修辞表現としては「鏡越し、見透かすような、透明で真っ黒な瞳は、まっすぐ私を見つめている。」はかなりお気に入り。あえなく二作品めではばっさりカット。ナボコフがロリータの冒頭の押韻をロシア語版では泣く泣くカットしてるみたいなもんやね(何様?)
・登場人物としてカップルを選ぶとき、それを男女にするのが「一般的にそうだから」くらいの理由であれば、「わざわざ」男女を選ばなくとも、女女でも男男でもいい、というのはふだんから考えているところではあるんだけど、こういう三人称で書く場合に男女にするのは明確な利点があって、「彼」「彼女」で一意にだれを指しているのかがわかるようになる。今回、三人称の方は「彼女」「今日子」のふたつで二人の登場人物を指し示しているものの、多少の違和感はあるように思う。いわゆる三人称全知で書いたとしたら、片方だけを特権的に「彼女」としたら相当の違和感が出るはず。
・投稿の順番がノクチルのやつと前後したものの、これが去年最後に書いた文舵の課題になる。ちゃんと小説を書き始めたのが文舵と同時なので、これでほぼ半年、ということになる。筆力はさいしょよりはついたと思う。間違いなく、文章を構成する要素に以前よりは自覚てきに書ける/読めるようになった。ただ、この回の合評会中に「特殊な課題だったけど誰がどれ書いてるかはわかるしあんまり違い(効果)がわからない」という発言があって、それもまあ理解できた。私は文体はけっこう課題ごとに切り替えたつもりで、じっさいかなり差異があると思うんだけど(たとえば練習問題②の問二と③の問二、第四章の問一で見ればぜんぜん違うはずだ)、「よく使う文体」はあって、その文体の芯みたいなものはそんなに変わっていない。
・まあ変わる必要があるかといえばないわけだけど、同じものしか書けないと思われるのも癪なのでノクチルのやつではいままでと若干違う文体ふたつで書けたように思う。そういう経緯もあった。