cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

『サマーフィルムにのって』はフィクションである。当然ながら。

 映画『サマーフィルムにのって』を初めて見た人は、何よりもその作中において特権的に見過ごされたパラドックスによって混乱することになるだろう。しかしそのパラドックスは、「これはフィクションである」ということを明示することによって(都合よくも)解決されるのである。また、それは作中におけるハダシの葛藤を解決する手段としても描かれている。どういうことか。 
 
 「世界が破滅していないので、パラドックスは発生していない」という言葉は作中で何度も口にされる。それは、未来からやって来た凛太郎が迂闊にも未来の情報を口にしてしまったとき、周囲の人が「それが致命的なレベルのものではない」ことを保証する言葉として話される。まだ世界は壊れた様子もないし、おそらく大丈夫だろう、という訳だ。 
 しかし、この映画においては、現在には知り得ない未来の情報を口にする、口にしないといった次元とは全く別の次元でもパラドックスが生じていることに、見ている人は気がつくはずである。それは凛太郎とハダシの間にある捻れた関係だ。 
 
 物語の筋を思い出そう。凛太郎が作品における「現在」にやってくるのは、主人公のハダシが作ったものの映像は後世に残されていない、彼女の一番最初の監督映画を見るためである。しかし、作中においてハダシが映画を作るきっかけになるのは、まさにこの凛太郎との出逢いに拠っているのである。 
 ここにおける時間のモデルは単線的ではなく、円環を描いている。一見「ハダシが映画を作る(巨匠になる)→その作品に感銘を受けた後世の凛太郎がハダシ監督の処女作(『武士の青春』)を見ようと過去に戻る→彼女が映画を作る(凛太郎が愛した映画監督になる)手助けをする」という風に読める物語上の時間の流れは、まさに主人公が(過去に行かなければ何の問題もなく生まれていたはずの)「自身が生まれるために」奔走する『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のオマージュのようにも見える。だが、両者の作品には明確な違いがあるのだ。それは先にも述べたように、主役のキャストが凛太郎でなければそもそも映画は作られなかったということである。ハダシが作った映画に感動したからこそ、未来に生きる凛太郎は現在という過去に戻った。だが、ハダシが映画を作ったのは凛太郎がいたからこそだった。この「映画をつくるなら主役は凛太郎じゃなきゃ」というハダシの姿勢は作中で何度も強調される。この奇妙な関係においては時間の前後関係が消失し、因果がまるでウロボロスのように弧を描いている。ハダシの映画がなければ凛太郎は過去に来なかったが、凛太郎が過去に来なければハダシは映画を作ることはなかった。これはパラドックスではないのか。だとしたら、なぜそれは世界の崩壊を引き起こさないのか。 
 
 ここで思い出したいのは、ハダシが映画を作る理由である。映画好きのおばあちゃんの影響を受け育ったハダシは、「スクリーンを通して過去と現在が繋がるところが好き」と言う。これはハダシにとって映画を「見るのが」好きな理由であり、自らが映画を撮る理由は「現在と未来をつなげることができそうだから」である。「過去と現在を繋げ、現在と未来を繋げる映画」。これがハダシの描く理想だ。そのため、「未来には映画がない」と凛太郎に言われ、おばあちゃんから受け継いだ思いが果たされ得ないことを宣告された気分になったハダシは取り乱すのである。しかし、ここで描かれているのはそれだけではない。ハダシにとっての映画は過去現在未来にわたって途切れることのない「永遠」であり、だからこそこの否定は衝撃的だったのである。 
 未来には映画がない、という内実はあまりにも曖昧にしか語られないが、この曖昧さはハダシの無条件に信じる象徴的秩序に対する〈他者〉であることを示している。それは「過去と現在を繋げ、現在と未来を繋げる永遠としての映画」というハダシにとっての象徴的秩序の外側にある、不定形で意味をなさない〈現実界〉の応答である。また、これはまさに記号でありフィクションである映画という〈象徴界〉にとっての〈他者〉である〈現実界〉でもある。 
 内実が明らかにされない未来人の時代における死は、実際には何百年後や何千年後とも限らない。しかしそれが数十年後であれ数千年後であれ、永遠を信じるハダシにはそれは永遠の否定に他ならない。だからこそ意味=象徴的秩序の前に空いた〈現実界〉の穴を前にハダシは動揺し、「それじゃあ映画作る意味ないじゃん!」と錯乱する。この死はフィクションに対する絶対的な死であり、それに先駆的に気づくことで本来的な生を生きることができるようになる類の「死」ではない。 
 
 それではこの物語において、ハダシの生に侵入する現実界はどうやって食い止められ、また健全な主体は回帰させられるのだろうか。もちろんフィクションによってである。それ以外に手立てはないのだから。先に述べたパラドックス、時間概念を歪め、ウロボロスのように始めも終わりもなくなった永遠を作ることによって、この問題は解決される。 
 
 私の映画を未来にも残したいというがどうやって未来に遺すのか、そうハダシに聞かれた凛太郎は「たゆまぬ努力によって」と答える。しかし実際には異なったやり方でそれは達成されるのだ。いや、すでに達成されていた、と言い換えてもいい。なぜならこの作品において、時間の因果関係は直線的ではなく、まさにこの円環構造が永遠としてハダシの映画を生きながらえさせるからである。しかしその構造が完成されるのが、まさにラストシーンによってであることも重要な事実として指摘しなければならないだろう。ハダシは画面の中のできあがったフィクション(『武士の青春』)の結末を否定し、作中の現実にフィクションの舞台を移動させる。作中作を作中へと引き摺り下ろし、フィクションを引き受けることで、作中の現実もフィクションとなる。ハダシは自らの世界をフィクションにすることで(まさに私たちの目の前のスクリーンで「これはフィクションである」と示される形になることによって)、不可能なはずの——世界が壊れていてもおかしくなかったはずの——パラドックスは遡及的にお墨付きを得て現前させられる。つまりフィクションの魔術であり、詐術である。作中における「現実」がフィクションに置き換えられることで、その魔力によって、円環を描く過去、現在、未来という純然たるパラドックスは世界を崩壊させない。フィクションの世界(象徴秩序)をより強固に広げることによって、映画の消滅という「無-意味」は再び視界の外に弾き出される*1。 

 作中作から始まった映画『サマーフィルムにのって』は、作中作が作中に侵食することでその物語に幕を下ろす。しかしこの侵食は現実からフィクションを守るための試みであり、ここにあるのは徹底したフィクション性なのである*2
 
 スクリーンにおいて——つまりフィクションにおいて——過去と現在と未来は弧を描くように輪を描き、永遠になる。しかし、ハダシが守り抜いたそれはフィクションの魔法であり、観客にとってはつかの間の夢でしかない。その夢は、ラストで「サマーフィルムにのって」というタイトルが表示され、まさに物語が「フィルム」にのったフィクションだったことを示されることによって覚めることになる。あるいは映画館の仄暗い暗闇を出て、それぞれの現実に戻っていくことによって。

*1:ここで形式的には物語のラストは「対決」の形を成していることにも注目したい。戦わないことを選んだ作品の結末を否定し、戦うことで終わらせる。しかしそれはあくまでも「フィクションにおいて」なのである。この倒錯は非常に精神分析的だと言えるだろう。ハダシの抑圧した現実界との「対峙」は、ハダシ自身によってフィクションの形で「反復」されるのである

*2:このフィクションに対する姿勢は驚くほどに徹底している。例えば凛太郎に将来の巨匠であることを知らされたハダシは、別にそのことに葛藤したりはしない。今手を抜いたとしても、全力を出したとしても、どっちにしろ未来において「巨匠になれてしまうことが確定している」のであれば、一人の人間が創作する意味とは何なのか、といった葛藤を一切ハダシがしないのは不気味にすら思えるものだ。しかしハダシが創作においてそうした葛藤をしないのは、まさにフィクションに対する信頼によるものなのである。ハダシにとっては納得の行く結末を作ることが創作なのであり、そこに他者による評価の介在する余地は存在しない。「正しい結末」を求めるハダシの創作スタンスは、「映画(フィクション)」に対するハダシの無条件の信頼と共犯関係にある(本当か?)