まえがき
私が以前から細々と行っている読書会で、次に読む本としてアレンカ・ズパンチッチ(※「Zupančič」なので厳密にはズパンチッチが正しい。タイトルでは既存の訳に倣った)の『Let Them Rot: Antigone's Parallax』を選んだ。読書会は日本語で行うことにしているので、訳さないといけない。そういうわけでまずは序文と序章を訳した。
ここでそれを公開するのは、おもに読書会の参加者募集のため――こんな面白そうな本があるんだけど読みませんか?――である。読書会はオフライン(札幌)で少人数で行っているので、ご興味があればご連絡いただきたい(Twitter/Discord: @awncient)。四月には始める予定なので。原著でも100ページに満たない短めの著作のため、数回で終わる予定です。私の翻訳スピードにもかかっているが......。
また、ズパンチッチの面白さをもっと広めたい、という気持ちもある。私は以前に彼女の『リアルの倫理――カントとラカン』を読んで、その試みの面白さ――カントの倫理学をラカンを通して補完し、さらには新たな地平まで推し進める――、その議論の鋭さ、大胆さ、そして緻密さに心の底から感動したのだけれど、多作なズパンチッチの著作のうち翻訳されているのはこの一冊のみ(しかも絶版)と、日本における彼女の知名度はけっして高いとは言えない*1。そういうわけで、以下にかんたんに氏の紹介を行う。
アレンカ・ズパンチッチはスロベニア出身のラカン派の哲学者、社会理論家である。リュブリャナ大学のスラヴォイ・ジジェクのもとで哲学の学位を取得し、1995年に同大学で博士号を取得、その後、1997年にパリ第8大学でもアラン・バディウのもとで博士号を取得している。スラヴォイ・ジジェクやムラデン・ドラーと共に「リュブリャナ精神分析学派」の主要メンバーとして知られ、 現在はスロベニア科学芸術アカデミーの哲学研究所の研究顧問及び教授、スイスのヨーロッパ大学院大学(European Graduate School)の教授も務めている。邦訳されているのは前述の通りカントとラカンを扱った『リアルの倫理』のみだが、ニーチェ研究者としても著名で、ヨーロッパ大学院大学のバイオグラフィーによれば『もっとも短い影――ニーチェの〈2なるもの〉の哲学(The Shortest Shadow: Nietzsche's Philosophy of the Two)』(2003年)は氏のもっとも影響力のある本だという。他にも喜劇論『内なる奇妙 喜劇について(The Odd One In: On Comedy)』や『セックスとは何〈である〉か?(What IS SEX?)』など、幅広いテーマで数多くの著作を著している。また、経歴からもわかるようにジジェクとの親交も深い彼女ではあるが、書きぶりにおいては大きく異なることは指摘しておく価値があるだろう。ジジェクの議論の鋭さはときに大雑把さに由来しており、数多く引き合いに出すモチーフや引用があくまで表面的に(議論のために)処理されることも多い一方で、ズパンチッチはより冷静に、深く作品解釈に踏み込んで個々の要素を再評価し、ラカンの概念や哲学的な議論に――けっして教条主義的ではない批判的な仕方で――鮮やかに結びつけていく。『リアルの倫理』訳者あとがきでの冨樫剛氏の言葉を借りれば、「言わば、ジジェクがものすごい勢いで通り過ぎてしまった後、このジュパンチッチが立ち止まり、ゆっくり話してくれている、といったところ」である*2。
本書には2つのバージョン、アメリカのFordham University PressからIdiom: Inventing Writing Theoryシリーズの1冊として2023年の1月に出版された『Let Them Rot: Antigone’s Parallax』、同年12月にイギリスのDivided Publishingから出版された『Let Them Rot』がある。ざっと見比べた限り、後者ではあとがき「なぜ欲望なのか?」が付されているのに加え、多少表現が改められている箇所も散見される。そのため、タイトルの訳としては『腐らせておけばいい――アンティゴネーのパララックス』と、前者のみに存在する副題をつけてはいるものの、後者を現状の決定版とみなし、以下の訳はDivided Publishing版の『Let Them Rot』から翻訳を行っている。本書に寄せられている、コプチェクとジジェクからのコメントも以下に訳しておこう。村山敏勝氏の逝去とともにラカン派-ジジェク派の批評家や哲学者の文献はとんと訳されなくなってしまった感があるが、まだまだ日本に紹介されていない面白い本は山のようにあるだろうし、それらが再び翻訳・出版されるようになることを心から願っている*3。
ズパンチッチの考察は新鮮で、まるで現代の理論的論争という煩雑な環境を超えた、開けた空気の中から湧き出たかのようだ。 このソポクレスの『アンティゴネー』に対する輝かしい解釈は、哲学、精神分析、そして政治理論やフェミニズム理論において、新たな地平を切り拓いている。 ―ジョアン・コプチェク(ブラウン大学)
かつて『アンティゴネー』について自著を執筆していたとき、私はこう思っていた。 「よし、これで議論は終わりだ―さあ、寝よう。」 ところが、その後にズパンチッチが自身の解釈とともにやってきて、いままでのすべてを再考せざるを得ない状況に追い込んだのだ。つまり――これを口にするのは辛いが――ここでは彼女の方が私よりも優れているのである。 ―スラヴォイ・ジジェク
『腐らせておけばいい――アンティゴネーのパララックス』
序文
それは、ある意味では偶然のことから始まりました。ただし、アンティゴネーが何らかの役割を担っていた私の以前の倫理学研究とのつながりが、まったくなかったわけではありません。親愛なる友人であり同僚でもあるドミニーク・ホーンズが、2020年1月――つまりパンデミック最初の年が幕を開ける直前――にブリュッセルでアンティゴネーに関するワークショップを開くからと、そこに招いてくれたのです。そのワークショップは半日ほどのイベントで、私は参加者と議論するためにメモやアイデアをいくつか用意していました。当時、その発表を進行中の研究とは呼びませんでした。というのも、その時点では何かが「進行」してさらに先へ展開するなどとは、まったく思ってもいませんでしたし、予想すらしていなかったからです。それはむしろ建設現場のようなもので、いくつかの(私なりに興味深いと思えた)アイデアが並びつつも、多くの未整理な断片が散らばっていました。私は議論を大いに楽しみ、その時間にとても感謝して、アンティゴネーのことはそこでいったん置いておいたのです。ところが、パンデミックの最初の年が進み、ロックダウンが続くなかで、ふと私はノートを取り出していくつかの未整理の断片を拾い上げ、再びアンティゴネーについて書き始めました。すると、不思議なほど予想外の軽やかさと力に突き動かされることになったのです。テキストが「自らを書いた」とまでは言いたくありませんが、もともと「偶然」によって生まれた、アンティゴネーについて考え始めるきっかけが、いつしか必然性を帯びてきたのは確かでした。それも、愉快な必然性として。いわゆる「ひとつのことが次のことへとつながって」という具合で、私は湧き上がるアイデアを追いかけましたが、それが最終的にどこにたどり着くか、あるいはどこにもたどり着かないのか、さえも分からないままでした。これはパンデミックによってもたらされた停滞のなかで得られた、思いがけない恩恵だったのでしょうか。それとも、自分自身の内側に閉ざされ、まるで施錠されてしまったかのような、少し風変わりな精神状態がもたらした作用なのでしょうか。
それがもし狂気だったとしても、そこには筋道がありました[1]。そして、それは日を追うごとにいっそう明確になっていったのです。全体的な視点の面でも、個別の問いをめぐる面でもそうでした。ソポクレスの『アンティゴネー』ほど多くの解釈、批評的注目、そして創造的反応を喚起してきた古典テクストは、ほかにまずないだろうと思います。私が読む際の大まかな視点を簡単にまとめると、次のようなシンプルな疑問に行き着きます。アンティゴネーという存在の何が、私たちをこれほどまでに魅了し続けるのか。なぜ、これほど多様な読み直しや書き換えが生まれ続けるのか。あらゆる文脈や言語において、『アンティゴネー』を再読し再考するという欲求や衝動は、いったいどのような(つねに)同時代的な矛盾に対応しているのか。
この全般的な問いを支える主要な拠点として、『アンティゴネー』をめぐる私の執筆と思考を突き動かしたのは、三つの特別な「強迫観念」でした。第一に、彼女の暴力です。ただしここで言う「暴力」とは、今日もっとも一般的に使われるような、単に軽蔑的な意味で使っているわけではありません。また、私たちが映画やメディアで慣れ親しんでしまった生々しい暴力を指しているのでもありません。概して、『アンティゴネー』における暴力は「生々しい」なものとは正反対で、鋭く突き刺すようなものです。ほとんど空間を占めることなく、骨の髄までまっすぐ貫いてくる。それは言葉の暴力であり、原理の暴力、欲望の暴力、主観性の暴力です。クレオンが行使する暴力とはまったく異なるもので、権力やその力能から生まれるわけではないにもかかわらず、かなりの力を持っているのです。この暴力はいったい何なのでしょうか。哲学的にも政治的にも、どのように考えればよいのでしょうか。第一章はこれらの問いを明示的に扱っていますが、じつはテキスト全体を通してこのテーマが流れ続けています。
次に、葬礼の儀式に関する問題があります。それは、人間の生の裏側にあるように思われる、もうひとつの側面——死だけでは終わらせることも、安んじさせることもできない、還元不可能な根底の流れとしての「生ける死」を鎮めるうえで、重要な役割を果たしているのです。この問題を深めるうちに、言語、セクシュアリティ(性的再生産)、死、「第二の死」といったものの関係、さらには、言語の副産物として生じるにもかかわらず、それ自体は言語や象徴界へ(再び)還元されない、特異で非言語的な「現実的なもの」についても調査することになりました。
そして、私が執筆するなかでおそらく最も「取りつかれた」と言ってよいのが、アンティゴネーの「もし埋葬されずに放置されているのが自分の子供や夫だったなら、彼らはそのまま腐らせて(tḗkō)おけばよく、国の布告に逆らってまで自ら埋葬しようとはしなかっただろう」という発言でした。つまり、ポリュネイケスだけにはそうすると言うわけですが、この排他的で唯一化するような主張――アンティゴネーが従う「書かれざる法」を自ら説明するための主張――は、彼女が持つ普遍的な訴求力や強烈な力と、いったいどう折り合うのでしょうか。この疑問に答えようとするうちに、アンティゴネーが守護者であろうと選び取る、この特異な(オイディプス家の)不幸(átē)は、人類一般の状況とどこかで結びついているのではないか、という問いへと一歩一歩導かれていきました。そこから「近親相姦とは何か?」という問い、言語のある種の「近親相姦的」な次元という仮説、そして主体の暴力的な欲望が普遍的な意味を持ちうる可能性へと話が進んでいったのです。
あきらかに、これらは決して些細な懸念や「強迫観念」ではなく、それだけで長い間、思索や執筆を熱中させてくれるには十分なテーマでしょう。同時に、私はこのアンティゴネーという星座のまわりで自身の道を探るにあたっては、これらの――そしてこれらだけの――アリアドネの糸をたどっていきたいと強く思いました。議論は、私の願いとしては、かなり厳密な論理、あるいは必然性にのっとって進んでいるはずです。そして、この内在的な論理が私の問いを導くなかで、私自身、ある道を選んでそこを進むことになりました。アンティゴネーに関する多くの重要な研究があるなかで、私は自分の主張を組み立てるうえで直接役立ったものだけを取り上げ、そうした著者だけを引用することにしました。この本は対立を煽るようなテクストを目指しているわけではありませんが、そうしたいくつかの読解とは明らかに異なる見解を示しています。むしろこれは、幅広く重要な研究領域への、特定の哲学的「介入」と捉えていただければと思います。したがって、この本の抱く野心は、一方でとても控えめでありつつ、同時にとても大胆でもあります。控えめというのは、ソポクレスの『アンティゴネー』における、あるまさに特定のポイントで起きていることだけに介入したいと考えているからです。一方、控えめでないのは、これら特定の、あるいは局所的なポイントが『アンティゴネー』全体を形作る星座に影響を及ぼし得ると――少なくとも暗黙裡には――想定しており、その影響はさらに先へ及ぶかもしれないと考えているからです。
こうした私のアンティゴネーへの「強迫観念」の結果は、アンティゴネー研究として見ればいくらか型破りに映るかもしれません。あるいは、そうではないかもしれません。いずれにせよ、本書の意義を認めてくださり、Idiomシリーズにぴったりだと評価してくださったポール・ノース、トーマス・レイ、そしてジャック・レズラの三氏に深く感謝申し上げます。彼らの積極的な――「戦闘的」と形容したくなるほどですが、その言葉にはいささか不穏な響きがあるため少し躊躇します――支援によって、この出版を実現することができました。
[1] [訳注]原文はYet if this was madness, there was method in it.で、おそらくシェイクスピア『ハムレット』の有名な一節「Though this be madness, yet there is method in ’t(狂気のようだが、ちゃんと道理がある)」のオマージュ。
プロローグ:「寒々しいものに向かう熱い心」
ソポクレスが『アンティゴネー』を書いたのは紀元前441年以前とされるが、その時代は多くの点で、われわれの現代社会とはほとんど想像もつかないほど異なっていた。それにもかかわらず、アンティゴネーという存在は、実にさまざまな問題や闘争――非常に現代的なものを含む――に関して、われわれの想像力をつきまとい、思考に影響を与え続けている。この百年の間に、『アンティゴネー』を原作とする戯曲の翻案は40作以上も登場しているし、「創造的」な翻訳や数え切れないほど多様な読解(哲学的なものやその他のものも含め)も行われてきた。直近の6年だけを見ても、新たな翻案がいくつも発表されている。たとえば2017年に発表された二作、ステファン・ヘルトマンスの詩的独白劇『モーレンベークのアンティゴネー』とカミラ・シャムシーの小説『ホーム・ファイア』(邦訳『帰りたい』白水社、二○二二年)は、テロリズムおよび現代的な「対テロ戦争」の文脈のなかにアンティゴネーを置いている。また、ソフィー・デラスペの映画『アンティゴネー』(2019年)は、近年の難民危機の文脈のなかにアンティゴネーを描く。一方、スラヴォイ・ジジェクの『アンティゴネー』(2016年)は三つの代替的な結末を提示し、個人と国家の関係という慣例的で何度も論じられてきたテーマに、集団的主体としてのコロスを第三の要素として導入する力強い方法を編み出している。
古典戯曲や古典的英雄の物語に、多様な翻案や読解(「解釈」)が生まれること自体はけっして珍しいことではない。とはいえ、『アンティゴネー』は今なお、際立った特異性をもっている。そしてアンティゴネーが生み出してきた様々な解釈の彼女自身がいずれも非常に興味深いものであるという点でも、やはり特筆すべき存在である。ここで「生み出す」という言葉を「触発する」ではなくあえて選んだのは、アンティゴネーがもたらす効果は、その「冷たい」ゆるぎなさによって火を起こすような性質をもっているように見えるからだ。作中の冒頭のやりとりでイスメネはアンティゴネーに対して「寒々しいものに向かう熱い心を持っているのね[1]」と言う。この表現はじつに的を射ていて、われわれがしばしば耳にする「熱い事態には冷静な思考を」という処方箋に対して逆を行くものでもある。つまり、最悪の事態や状況というものはむしろ「熱い」ではなく「寒々しい」ものであり、それらと真に対峙し、周囲をも巻き込むには、非常に「熱い心」が必要だということである。
かくも多くの力強い翻案が存在するという事実は、原作の戯曲そのものの構成が非常に巧妙であることを示している。私たちがさまざまな翻案について語るとき、そこには差異や区別があることを前提としているが、本当に優れた翻案は、いずれも何かを再生産してもいる。すなわち、原作の戯曲が提示した「アンティゴネー」と呼ばれる星座の何らかの特異性を、繰り返し、あるいは再創造し、再活性化することに成功しているのである。
一般的にいえば、社会の構造や、法の象徴的な構造、あるいは道徳や人倫(Sittlichkeit)の広範な領域に大きな地殻変動や危機が起こるたびに、アンティゴネーは翻案や解釈の焦点となっているように思われる。より具体的に言えば、アンティゴネーという存在は、社会の成立そのものとその存在の問題に触れるような、ある特定の種類の社会的対立を象徴しているのではないだろうか。したがって、この戯曲の「永遠に」現在的で普遍的な意義をもつ特異性を特定しようとするならば、まず「対立」という概念が第一歩となるかもしれない。ただし、この場合の対立は、二者(または複数)のあいだの敵対や衝突という意味で理解すべきではない。むしろマルクスが「階級的対立」を論じたときの意味で考えるべきなのである。マルクスにとって、階級的対立とは、単に異なる階級やその利害のあいだの衝突を指すのではなく、それらの階級が成り立つ空間、すなわち資本主義的生産様式の現実そのものの論理に内在するものを意味していた[2]。言い換えれば、アンティゴネーの場合における対立について語ることは、彼女とクレオンのあいだの衝突や敵対そのものに注意を向けるのではなく、むしろ、この衝突のなかで、そしてこの衝突を通じて浮かび上がる何か――それによって、彼らがその衝突のなかに立つ地盤そのものを規定しているひとつの特異なねじれ、あるいは裂け目が露わになる——へと注意を向けることを意図している。これこそが二重の視点であり、したがって、アンティゴネーという存在の力でもある。彼女は単にクレオンに対する敵対のなかで自らの立場を貫くだけでなく、それまで見えなかった社会空間の構成要素や例外、そして弁証法的な緊張関係を私たちに認識させるのだ。私たちに提示されているのは、単に二人の登場人物が現実の要素として対立しているということではない。この現実感を構成すると同時に、それをあたかも異なる立場が現れ、対立するための中立的な媒介であるかのように見せかけているものの正体を垣間見させるという、あり得ない体験が提示されているのである。それゆえ、『アンティゴネー』を読む・観るという特異な体験を言い表すには、「パララックス・ビュー」――ふだんなら絶対に重ならず、同じ平面に共存するはずのない二つの視点の共存――という用語を用いるのが最も適切かもしれない。まさにソポクレスの戯曲において、それが起こるのだ——二つの視点が出会うのである。
『アンティゴネー』が偉大なテクストたるゆえんは、「私たちに考えるべき多くのことを与えてくれるから」だとか、「困難な(道徳的)ジレンマを提示しているから」ではない。もしアンティゴネーが自分の求めるものを要求することの是非ばかりを問題とし、それに思考の重心を置きすぎるなら、この戯曲の本質と力を見落としてしまうだろう。アンティゴネーという存在は、まさに彼女の行為と要求そのものなのであり、それらを通じて暴き出されるのは、彼女自身についての何事かというよりも、彼女が属する秩序や構造の内部にある何かなのである。彼女の行為――ポリュネイケスの遺体に埋葬の覆いを施すこと――とその要求は、この戯曲の始原的な事実(あるいは出来事と呼ぶべきだろうか?)を構成している。確かに彼女の行為には理由があり、彼女自身もそのいくつかを列挙しているが、それでもなお、彼女の行為は絶対的な起点として現れ、そこから過去にも未来にも影響を及ぼしていくのである。この点で、アンティゴネーは幽霊という際立った登場人物を欠いたハムレットのようなものだ。より正確に言えば、『ハムレット』ではすべてが亡霊の出現とその言葉によって始まるのに対して、『アンティゴネー』には、過去の不正を証言するような権威ある亡霊すら登場しない。そこにあるのは、アンティゴネーの主観的かつ主体化をもたらす確信(彼女の「熱い心」)だけである。だからこそ、彼女自身の登場と行為が幽霊のような余韻を残し、戯曲全体を通じて消えることのない幻影のような残像を生み出しているのだ。あるいは、こうも言えるだろう。『私たちに困難な(道徳的)ジレンマを提示し』、『多くの考えるべきことを与えてくれる』のではなく、むしろこの戯曲は私たちに何かを投げつけるのだ。それはいったい何なのかを私たちは完全には理解できなくとも、それ自体として存在し、私たちに作用し、私たちを通じて作用し、私たちに未知で「不可能な」何かを伝達してくる。それが頭痛を引き起こすとすれば、あれこれのジレンマを考えすぎた結果生じるのではなく、「不具合」のようなものによって引き起こされる。それは、ひとつのフレームのなかに、現実と、それを構成する内在的なねじれの両方を同時に見るという、ほとんど視覚的な挑戦に近い――それゆえに「パララックス・ビュー」という発想が生まれるのだ。
したがって、このパララックスにおいて問題となる二つの次元、あるいは視点は、単にアンティゴネーとクレオンのそれではない。とはいえ、彼らの対峙は、私たちが定義しようとしているパララックスの裂け目を明るみに出すうえで大いに助けとなる。また、これは単に、国家権力や国家の法と、それとは別の永遠的で不文律の、倫理的あるいは神的な法との対峙だというだけでもない。ここで実に重要となるのが、アンティゴネーがある場面で言及し、クレオンがそれを侵していると彼女が考える、神的な不文律とは何なのか、その正確な地位を見定めることである。しかし、この問いに踏み込む前に、さらに二つの予備的な言及を加える必要があるように思われる。
第一に、『アンティゴネー』の物語は、いわゆる「テーバイ三部作」のほかの二作――『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』――を暗に含み、前提としている。これら二つの作品に含まれる重要な要素は『アンティゴネー』という悲劇の核心にあり、切り離すことはできない。物語上は『オイディプス王』、『コロノスのオイディプス』、そしてその後に『アンティゴネー』という順序にもかかわらず、ソポクレスが『アンティゴネー』を最初に執筆したという事実は、他の二作、あるいはその基本的な語りの要素が、当初から《アンティゴネー》という星座の固有の構成要素として内在していたことを明示している。それはまた、アンティゴネーの行為が絶対的な始まりであるという先の指摘を裏付けるものでもある。すなわち、彼女の行為は、歴史に従って生じるのではなく、むしろ(彼女自身の)歴史を内包しているような始まりなのだ。
第二の指摘は、先の点とも関連するが、クレオンは単に統治者や王、あるいは国家権力の体現者として、この物語の出来事がその支配下で展開するだけの存在ではない、ということである。彼が権力の座につくのは、ふたりの兄弟――ポリュネイケスとエテオクレス(いずれもオイディプスの子)――が互いに殺し合ったあとである。一方の兄弟を称え、もう一方を埋葬の儀から排除するという布告は、彼の数ある布告のひとつにすぎないのではなく、この場合においては、彼の始原的な行為そのものであり、権力の成立と重なり合う行為なのである。これは決して些細なことではなく、多くの含意をはらんでいる。さらにいえば、ここで私たちが問題にしているのは、単なる権力の交代、統治者の交代、一人の王が別の王へと取って代わるというだけの事態ではない。ソポクレス的なより広い視点においては、オイディプス(自らの父であるライオス王をそうと知らぬまま殺し、その地位に就き、母であるイオカステと結婚した)に象徴される、潔白でありながら[3]、しかし同時にまさしく言語に絶するほど「犯罪的」でもある支配から、「文明的」で、ふつうの、通常運転の支配への移行が起きているのである。この地殻変動こそが、ソポクレスの戯曲の核心にあるのだ。
物語の背景を手短に思い出そう。近親相姦から生まれたポリュネイケスとエテオクレスの二人の息子たちは、オイディプスが追放された後、一年ごとに交代で王権を握る取り決めをしていた。ところがエテオクレスが自身の番を終えても王位を譲らなかったため、ポリュネイケスは軍を起こしてエテオクレスを退位させようとした。その戦いの末、二人は互いに相打ちとなって死に、そこにイオカステの兄クレオンが即位することになる[4]。クレオンはポリュネイケスを裏切り者と見なし、葬礼の儀を受けるべきではないと決定した(ジャン・アヌイの翻案『アンティゴネー』では、クレオンはこの決定を、民衆に提示せざるをえなかった「構成的神話」だと皮肉交じりに言及している。彼はまったく適当にどちらか一方を英雄、もう一方を裏切り者に仕立ててみせただけであり、変わり果てた遺体が本当はどちらのものかもわからないのだ、とアンティゴネーに語る。だから、外に放置されている遺骸はひょっとするとエテオクレスのものかもしれないのだ、と。この露悪的な付け足しは、もちろんきわめて近代的なものである。すなわち、支配者たる「われわれ」は、必要な業務の一環としてやらねばならない悪しきことや汚れ仕事を、シニカルに自覚しているのだという再帰的な余剰知識の追加だ。あらゆる政治的リーダーシップにはそうしたことが必要であり、構成的な「汚さ」がつきものなのだという、あたかもこの種の露悪的な認識がより問題性を減らし、より道徳的なものにするかのような認識。こうした論理が現代の社会や政治の文脈でしばしばどのように展開されるかについては、後にあらためて論じることにしたい。)
繰り返すが、『アンティゴネー』の背景にある主要な転換は、オイディプスとその子孫による支配――恐るべき呪いと無意識の罪が運命を形作ってきた支配――から、クレオンによる「正常な」支配へと移ることである。また、ここで問題になっているのは、少なくともある側面においては、先史(神話)から歴史への移行、法に属する無意識の罪による支配から、「法の支配」とそれ自身における排除された無意識的核心への移行であると言うこともできるだろう。しかしこの具体的な場合においては、問題となっているその移行は、クレオンの始原的な過剰および傲慢によって刻印されている――それは「正常な支配」に拭いがたい病理を染み込ませるか、あるいはこの病理を「正常な支配」のまさに核心へと引き込むものなのだ。ここでは、今後も繰り返し用いることになるイメージを使ってもよいだろう――この移行は、次のようなジョークにおいて問題となっている推移や転換に非常によく似ている。「われわれは人喰い人種ではない。最後の一人は昨日食べてしまったからな」
かくして、『アンティゴネー』で起こることは、通常の社会秩序の成立そのものに暗に含まれている何かに関わっている。それは、きわめて具体的で特異な瞬間に、またその瞬間の強制的な正常化=規範化と一般化に、そしてそのことが日常的・通常的に進行し機能している国家権力にもたらす帰結に関わっているのだ。クレオンによる国家権力の扱いには、法に属する無意識の裂け目に対する敬意を踏みにじるようなものが含まれており、アンティゴネーの目に映る暴力の中心点――そしてアンティゴネー自身の暴力とも密接に結びつくその一点――を、私たちはまさにそこに見出すことになるだろう。
私は以下において、アンティゴネーによって私たちに突きつけられるいくつかの繊細な論点に取り組むことを提案したい(「徹底操作(Durcharbeiten)」はフロイトの有名で非常に示唆的な用語でもある)。これらの論点は、繊細で、猛毒を含み、伝染性の、強烈な、心をかき乱すものでありながら、同時に魅惑的でもある――「魅惑的」という語のもつすべての曖昧さとともに。魅惑的なイメージは私たちを惹きつけ、まなざしを捉えるが、同時に私たちの目をくらませ、視界を奪う。ラカンが『アンティゴネー』への注釈で行った多くの強力な洞察のうちのひとつは、まさにこのヒロインの中心的なイメージとしての地位に関わっている。舞台上で上演されるこの戯曲を見るとき、私たちが観客となるのはアンティゴネーとの関係においてのみであり、それ以外の要素に対してはむしろ「聴き手」になるのだと彼は示唆する。アンティゴネーだけが必然的にイメージとして浮上し、目のくらむような輝きとともに――「崇高な美」を帯びて立ち現れる。それはもちろん、彼女の身体的外見とは何の関係もない。
アンティゴネーに関しては、そうした繊細な論点がいくつか存在する。本書では、「暴力と不文律」、「死と葬礼」、「近親相姦と欲望」という、互いに強く関係しあう見出しのもとにおおよそ位置づけられるだろう三点を取り上げ、論じていく。あるいは別の、パララックス的な視点から見れば、それらは「テロル」、「生ける死」、「崇高化=昇華」と言い換えられるだろう。
[1] [訳注]『アンティゴネー』88行目。ギリシャ語原文だと « θερμὴ ἐπὶ ψυχροῖσι καρδίαν ἔχεις. »。ズパンチッチの言う“You have a hot mind over chilly things,”はほぼほぼ直訳と考えていい。ただ、ギリシャ語の καρδία (kardía) は「心」や「精神」を意味し、「知的な思考」よりも感情や情熱の座としての意味合いが強いため、"mind"(理性・思考)よりも "heart"(心・情熱) のほうが適切だろう。
[2] [訳注]マルクスの「階級的対立(Klassengegensatz/ class antagonism)」は「階級闘争(Klassenkampf / class struggle)」とは異なる概念として使われることが多い。"antagonism"(対立)は、階級社会そのものに内在する根本的な矛盾や対立構造を、"class struggle"(階級闘争)は、こうした対立が具体的な歴史的・政治的運動として表れる局面を指す。
[3] [訳注]オイディプスが自身の犯した内容にも関わらず潔白である――罪を自ら背負うことすらできる立場にないことについての分析は『リアルの倫理――カントとラカン』第8章「悲劇、そして精神分析の倫理」参照のこと。
[4] [原注]物語のこの部分は、アイスキュロスの悲劇『テーバイ攻めの七将』や、エウリピデスの『嘆願する女たち』『フェニキアの女たち』の始動点にもなっている。エテオクレスが当初の取り決めを破って王位を奪い、その結果としてポリュネイケスの攻撃を招いたことは疑いようがない。また、他のこれらの戯曲から見ても、クレオンがポリュネイケスに科した処罰――その遺体をさらしたまま放置すること――が、人間の法にも神の法にも準拠しない、いわば過剰なものであることもまた疑いない。
*1:『リアルの倫理』については、小泉義之氏の書評を以下のWebアーカイブから見ることができる。いわく、「本物である。ジジェクが序文を寄せて、「私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ!」と書いているが、ジジェクはマジである。カント論とラカン論においても、文学論においても、本物である。現代思想が閉塞していると感じている人、そこから抜け出したいと思っている人に、広く読んでほしい書物である。」私もまったくの同感だ。
*2:アメリカのラカン派の批評家、ジョアン・コプチェクもジジェクとのスタンスの違いにおいて同様の語られ方をすることは多い。『〈女〉なんていないと想像してごらん』訳者あとがき参照
*3:ちなみに本書について翻訳権は取得していないため、序章以降を公開する予定もないし、申し入れがあればこの翻訳についても非公開とする予定である