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啓発をかたる共犯性――映画『帰ってきたヒトラー』について

 2015年公開の映画『帰ってきたヒトラー』は「現代にヒトラーが蘇ったら?」というifを描いたタイムスリップものの映画である。ヒトラーヒトラーのまま(モノマネだと思われ)コメディアンとしてテレビスターになり、本を書いたり、復活してからの彼のエピソードが映画になったりする。もちろんそれだけで終わるものではなく、ヒトラーはひそかに政治的な目標のために動いてるし実際悪人なので、それを支持してしまうような排外主義の強まっている世のなか、気をつけましょうね…といった警告めいたメッセージとともに物語は幕を閉じる。街中で実際に行ったアドリブ主体で撮ったロケ映像を挟んでいることで、現代でヒトラーが受け入れられてしまう現状を描いたドキュメンタリーにもなっている。

 端的に、あまりいい映画ではないと思う。

 風刺なりドキュメンタリーというものは「どの位置から語っているのか」というのがその強度に明確に関わってくるものなのだけど、この作品においては最後に至ってようやく作中の倫理観のリアリティラインが明かされる構造上、必然的に視聴者は倫理的な立ち位置を宙吊りにされる。「この作品はヒトラーをどう描きたいのか?」という作品の軸となる倫理観がふわふわのままに進むので、前半のコメディタッチな内容はほとんど笑えない(誰の立場から誰をどのように笑わせようとしてこの画になってるのかがわからない)。加えてそれが終盤に明かされる構造も「視聴者のみなさん、笑ってたかもしれないけど笑いごとじゃないんですよ」とマッチポンプで説教をしようとしている感じがあって、厳しい。

 それで提示される倫理的な視座というのも、どの程度有効なものなのかは疑問に付す必要がある。この映画が提示するのは、ドキュメンタリーパートでヒトラー(役の役者)に移民についての懸念を話す実際の市民たちや、実際の移民排斥運動の映像を用いた、「これらの現代におけるナショナリズムの高まり、移民排斥運動は新たなヒトラーを生みかねない」というメッセージである。しかしながら、どのようにそれはナチズムと近しいのか、なぜ社会はヒトラーを歓迎して/望んでしまうのかという、主張の核となるフィクションとしてのロジックは、実のところほとんど存在していない。現実の排外主義的傾向は、それがもつ暴力性や問題点はもちろんのこと、複数の多角的な原因が存在しているし、ヒトラーなりナチズムなりがどのようなことをし、どのような原因があったのかについても非常に多くの論点が存在しうるだろう。それを、演説も上手いし人心掌握もお手の物なのでヒトラーはテレビスターになった、という筋書きと、実際にヒトラーのコスプレをした役者さんに街中を歩かせたら面白がる人が多かったという二点を強引に結びつけ、「移民排斥運動はヒトラー的である/ヒトラーの復活を許す世情がある」と短絡的に結びつける。ここにフィクションの力が、あるいはドキュメンタリーとしての洞察があるだろうか?

 仮にこの物語のラストが、曖昧に視聴者に警鐘を鳴らすような終わり方ではなく、より具体的な未来を描いているものだったらどうだろうか。たとえば、実際にその後も人気を集め続けたヒトラーが首相になり、笑顔で就任演説を行っている場面が大写しで映るような終わり方だったとしたら。この結末に納得感を持たせるためには、作品にはそれがどのように/どうして可能になるかの分析が、それが起こり得る内的必然性が求められる。そのような強度がこの作品にあるようには、私には思えない。主張を成り立たせるための個々の要素を配置しただけで、それらがどのように結びつくのかは「現にそうだから」とドキュメンタリーパートに逃げることで想像力を用いない。徹底してフィクションのなかで強度を持たせないことで、具体的にどのように悪いことが、なぜ起きるのか、それはどのように乗り越えられうるのかという分析も希望も展望も欠いている。ヒトラーは民主主義によって選ばれた、私たちのなかにもヒトラーはいるというクリシェが、どのような生産性のある議論に結びつくだろうか?

 そしてこの「これは主観ではなく事実である」という建前が大きければ大きいほどに、この作品は特権的に倫理的な地位を占めてしまう。現状への分析もないまま、ただ「この移民排斥運動はヒトラーを生んでもおかしくない」と不安を煽った制作者は社会的に有意味な問題を提起したとして讃えられ、それを見た視聴者も「この危険性が理解できるあなたは大丈夫です」と免責される。あるいは、途中までのコメディパートで笑ってしまった視聴者は、「あなたも共犯だ」とスクリーンの向こう側から指摘されることで、「この物語を理解できた」と自己を正当化しこの作品を褒めることを余儀なくされる。ここにあるスクリーンと(理解できた)観客の共犯関係と、そこから排除された今日の保守的陰謀論的な「反動」の躍進を結びつけるのはまったく不自然なものではないだろう。

 たとえば日本で移民問題が話題になったとき、この『帰ってきたヒトラー』が先見的な作品であると話題になったりするのは、一見この作品が優れた作品であるようにも思えてしまうものだが、そこにこそ欺瞞がある。たんに当時のドイツで排外主義的な移民問題が関心を高めていたというだけの問題であって(だからこそそうした「実際の」映像素材も使われている)、それとナチズムとは厳密に内在的な繋がりはない。少なくともこの作品においては描けていない。この映画においてヒトラーは、後半でそれを少しばかり語る登場人物は存在するものの、過去に具体的に何をし、どのように悪い存在であったのかという歴史的具体性が剥奪され、メディア消費に最適化された扱いやすい悪のアイコンになってしまっている。それゆえに、この映画を用いて「ヒトラー的だ」と排外主義的傾向を非難する行為は、まったく先見性があるものどころか、実質的な分析も現状把握も欠いた、自身の倫理的優位性を守ろうとする行動に成り下がってしまう。個別具体的な問題をふわっと特定のナショナリスティックな雰囲気に結びつけ、ヒトラーという形象を与えて悪魔化することで「やっぱりあいつらは悪だ」「俺たち左翼は連帯しような…」といった形で平穏を守ろうとすること、この種の行動こそジジェクが『暴力』でシステミックな暴力と読んで批判したものにほかならない。私たちに求められているのは、安易な非難の手法にも露悪趣味にも乗ることなく、徹底して過去と現在の分析を続け、ありうべき具体的な未来の希望を想像することでしかないだろう。

 

(補遺)
 本論は終わりとして、ここからは蛇足として雑駁に話をしておけば、私がフィクションが好きなのは、そこに「描かれうる何か」が描かれているからにほかならない。それはたとえば風刺映画、社会派映画と呼ばれるものであれば、現実を変えたいという強い欲望であったり、こうあってほしいという希望であったり、あるいは現状のその先に起こり得るだろう(カリカチュアライズされた)最悪な状況である。それらを想像力によってスクリーンの上にたしかに存在させてしまうこと、それがいい意味でも悪い意味でも説得的な意味を持ってしまうことの魔法が見たいのであって、ドキュメンタリーとしてもフィクションとしても中途半端な、曖昧に警鐘を鳴らすだけの作品を見たいわけではない。そういう点でいうと、たとえば『夜明けまでバス停で』は制作者の「ここまで描きたい」という欲望がたしかに反映されていて、とてもよかった。この映画も原作の小説ではだいぶテイストが違うということなので、原作小説を読んでみたらまた違う感想になるだろうな~と思う。ドキュメンタリーの皮を被せることは、映像としての面白みは確かに増したかもしれないが、フィクションとして踏み込むべきだった作品の強度を落とすことに帰結しているように思えてならない。