cartaphilium

La prière la plus solitaire est ainsi la plus solidaire des autres.

樋口円香の単色アイコンについて

 時がすぎるのはあまりに早い。

 同じ昨日を繰り返しているようで、また訪れる今日はすこしづつその軌道を変えて、私たちはいつの間にか遠くどこか離れた場所にいるものです。

 半年前に私たちが何について話していたか、覚えていますか?

 

 

 

 そう、樋口円香さんの単色アイコンについてですね。

 

 

 シャニマス4周年企画の一環で公開された、各アイドルユニットのチェインのグループチャット画面(※チェイン:シャニマスにおけるLINEのようなもの)。

 樋口円香さんが自身のアイコンを単色アイコンに設定していることは、大きく話題になりました。主に私のなかで。

 しかし、たとえば「円香 単色アイコン」で検索しても、以下の記事が投稿される以前には3件あるのみ、それ以降はこの記事についての言及がほとんどです。

 「透 雛菜 アイコン」で検索すれば浅倉透さんが市川雛菜さんの宣材写真をアイコンにしていることへの言及ツイートがたくさん出てくることを鑑みれば、明らかに少ないと言えるでしょう。

 そして私は、唯一まとまった文量で書かれた考察記事といえる以下の記事の主張には、全面的に賛同できません。

 そう、声を大にして言いたい。樋口円香さんは実はそんなにキモくない! と。

sasatanwwwww.hatenablog.com

 

 まず論点を整理しましょう。

 上の記事では、

・「Twitterが単色アイコンの人は、LINEも単色アイコンであるという不完全な前提」のもと*1

Twitterの単色アイコン界隈の特徴に言及し(「名前が概念的で、ツイートが何を言っているのか分からないアレ」)、

・「樋口円香がそんな単色アイコンであることが、わたしにとっては少なからずショックでした。」と述べます。

そのうえで、

・筆者には樋口円香さんがTwitterを使っている想像がつかないので、彼女の単色アイコンはTwitterの単色アイコン文脈と関係がない、という留保を入れたうえで、

・「自分のセンスで「単色アイコンがいい」と判断してLINEを単色アイコンにしている」という点をもって、

・「単色アイコンを選ぶセンスが一致している時点で、Twitterの単色アイコンも樋口円香もある程度同じ感性を持った人間

 と結論づけます。(強調原文)

 

 このシンプルなロジックを支えているのは、筆者自身太字で強調している「自分のセンスで「単色アイコンがいい」と判断してLINEを単色アイコンにしている」という一点でしょう。

 本当にそうなのでしょうか? 私はある種の確信を持っているのですが、彼女の単色アイコンは、もっと別のところ、彼女自身の複雑な自意識に由来するもののように思われます。

 

 それを示すためには、TwitterとLINEにおけるアイコンの立ち位置を比較する必要があります。私には、単色アイコンをめぐっては「まさに文章を送信するその瞬間において、アイコンがどこにあるのか」が非常に大きな問題だと思われるのです。

 Twitterにおいて、私たちはツイートをするまさにそのとき、自身のアイコンと送信されるツイートを一緒に見ながら送信ボタンを押します。言うなれば、ひとはツイートをするとき、「このアイコン、このアカウントのもとで、私はこの発言をする」という署名をしていると言っていいでしょう。この署名は、承認の働きを、すなわち、アイコンとツイートが併置された画面を見て、その名のもとに[sub nomine]ツイートをしてよいと判断する働きを持ちます。

 この作用は必然的に、アカウントをパッケージングするものです。Twitterの運用は多かれ少なかれ(意識的であれ無意識的であれ)、このパッケージングを行う側面を持っていると指摘できるでしょう。複数のアカウントを「用途別に」運用するひとがいるように、容易にそのアイコンを変え、ハンドルネームを変え、ヘッダーを変えることができる。自身の名のもとにつぶやかれたツイートも、気に入らなければ剪定することができる。そうして、自身の意図した通りの全体性を持ったアカウントをパッケージできる。だからこそ、単色アイコン界隈というような、同じようなアイコンで同じような発言をするひとたち*2クラスターになることもできるし、あなたもお望みであれば、アカウントをしかるべく整えてそこに入っていくこともできる。

 ただ、このユーザーの意図した通りの全体性を持ったアカウントはそれゆえに、必然的に、ユーザー自身とは離れて強固な一貫性を持つようになることも指摘しておく必要があります。この文章を読んでいるひとのなかには、過去に「自分のキャラじゃないな」と思ってツイ消しをしたことがあるひともいるでしょう。しかしその「キャラ」はあなた自身のキャラクターでしょうか。それともあなたのTwitterアカウントのキャラクターでしょうか。

 ここで重要なのは、Twitterのアカウントはユーザーの意図した全体性を簡単に演出できる設計になっていますが、それを欲しているのは間違いなくユーザーの欲望だ、ということです。自身のキャラと違うからツイートをしない、あるいは一度ツイートした文章を削除する、というときの感情は、見られたい自身の姿を保とうとする欲望と、現実にはその通りの存在ではない自身とのあいだの葛藤であるはずでしょう。そうした虚栄心が、Twitterではわかりやすく存在すると言えると思います。そしてまた、アイコンはわかりやすくその象徴になっている。

 

 それに対してLINEでは、誰かと話すとき、自身のアイコンが表示されることはありません。自分がどう見えているのかについては、話している当の相手から端末の画面を見せてもらうか、スクリーンショットを送ってもらうかでもしない限りは見ることができません。

 加えて、LINEでは一般的に、ひとりごとは存在しません。誰かとの会話しか存在しないのです。もっといえば、特定の誰かとの対話しか、「あなた(たち)」との会話しか存在しない。ひとはそこでは、こうありたいと望む姿のみをとることはできませんし、するべきでもありません*3。ひととの会話のなかで、思いもよらない返信に狼狽したり、怒ったり、思わず笑ってしまったり、その場のノリで調子に乗ったり、寝ぼけたまま送信したり、そうした「あなた(たち)」とのあいだのクローズドな会話が行われるのがLINEだ、と言えるでしょう。そうした一時の感情によって紡がれる有機的な言葉は、こう見られたいという虚栄心とはおおよそ無縁なものです。しかしながら、ひととのあいだで交わされる、「こう見られたい」という意図の存在しない、気を抜いた自身の発言――ときに放言であったりしますが――は、振り返って見るとドキッとするものです。とくに、繰り返しになりますが、LINEではメッセージを送るそのときに自身のアイコンは見えません。LINEで文章を送ろうとするときに、「いま送ろうとしているこのメッセージは、このアイコンのもと、こういうふうに見られることになるだろう」ということまで気を回す人はおそらくいないでしょう。ここです。自分がどんな顔でメッセージを送っているか、自分だけが把握していない構造がLINEにはあります。もちろんLINEのアイコンも自らが設定したものではありますが、それはどこまでも過去の自分が設定したものに過ぎません。だからこそ、寝癖が立ったまま怒っているひととか、社会の窓が空いたまま偉そうにしているひとみたいな状況に近しいことが、LINEでは起こりうる。意図した一貫性を持たない自身の発言が、しかし自身の名のもとに、ひとつのアイコンのもとに集められてしまう窮屈さがある。

 樋口円香さんは、自身の振る舞いがどう見られうるかということについて、彼女なりに、非常に自覚的です(WING編からずっと、どう見られているか、どう見られたいのか、自身はほんとうはどうありたいのかは、彼女の、ひいてはノクチルの物語の根幹にあるものです)。だからこそ、自身がどう見られているのかを制御しきることはできないLINEの構造においては、彼女にとっては、単色アイコンが最善手だったのではないかと思うのです。

 

 たとえば、単色アイコンにする前の樋口円香さんを想像してみましょう。もしかしたらアイコンは自撮りだったかもしれないし、お気に入りの小物だったかもしれない。そのまましばらくやっていて、ノクチルの4人で買い物に出かけることになる。駅前で早く着いた小糸と珍しく早く着いた雛菜と待っていると、「と、透ちゃん、いま起きたって......!」といって、小糸がスマホの画面を、グループLINEで遅刻連絡をする透のメッセージを見せてくる。「浅倉......」とつぶやきながらも、目はそれ以外のところに釘付けになっている。なぜなら、前日夜にみんなで変なノリでしゃべっていたときの自身の発言が、透の遅刻連絡のひとつ上に残っているから。そうか、私はLINEではみんなにはこういうふうに見えているのか、としばし考える。

「円香ちゃん......?」と心配そうに聞いてくる小糸に、「浅倉、ジュース三本ね」「う、うんっ!」「やは〜」といった会話があって、翌日、樋口円香さんのアイコンは単色になっている。これです。

 樋口円香さんは単色アイコンをセンスがいいと思っているのか? 私は、防御姿勢として、一番地味で、何も語らない単色アイコンを選んだのではないかと思っています。ふと自身のアイコンに意識を巡らせたとき、笑顔で悲しい話をしていることも、キメたポーズの宣材写真でギャグを言っていることも、好きな小物に誰かへの怒りをしゃべらせることもないように。

 そう、まさに上の記事でも引用されている「私は娯楽のための見世物じゃない」という思考によって、彼女の単色アイコンは説明ができるのです。

 

 さて、まとめると私の主張も非常にシンプルで、「ふだん意識しないぶん、意識したときになんの感情も抱かないように単色アイコンにしている」がファイナルアンサーです。

 しかしここには別の袋小路があることも確かでしょう。LINEの単色アイコンが別種の自意識の発露であったとして、LINEのアイコンが単色の時点でそれ相応のキツさがあるのもまた確かだからです。しかも、一度「いちばんダメージが少なく済むように」という理由で単色アイコンに変えたのだとしたら、そこからまたもとに戻すのは、多大な労力を必要とすることでしょう。防御態勢としての単色アイコンから他のなにかに変えることは、すなわちあえて自身の弱点を晒すことであって、自意識との格闘に苛まれること必死ですし、もし小糸ちゃんに「円香ちゃん、アイコン変えたんだね......!」と言われたら、まず間違いなく舌をかんで死ぬでしょう。

 

 そして現在これを書いている筆者も、まったく同じ袋小路にもう何年も入り込んでいます*4。助けてくれ......小糸ちゃん............

 

 さて、いちばんキモいのが誰だったのかわかったところで、そろそろお別れの時間のようです。それでは......

マンモクスン

 

P.S.

トーンカーブをかけたアイコン

 ちなみに、トーンカーブをいじると彼女のアイコンは微妙に単色ではないことがわかります。

 その上にさらにバケツをかければ、微妙に横線の縞模様が入っていることがわかるでしょう。

 しかしこれはいったい何なのか。jpgで投稿されたことによる劣化の可能性もゼロではありませんが、まだ全貌は謎に包まれています。みなさんはどう思いますか?

*1:野暮なツッコミだが、「"Twitterが単色アイコンの人" ならば "LINEも単色アイコンである"」からは、「"LINEが単色アイコンの人" ならばTwitterも単色アイコンである" 」は導けない。加えて言えば、後述の理由で、LINEが単色アイコンのひとはTwitterは単色アイコンにはしないと思う。個人的な感覚では、同記事に対する以下のツイートの方が頷ける。

https://twitter.com/Hals_SC/status/1532968651527098368

*2:特徴なるものを持ちうるのは、前提として、それがひとつの全体性をもっているからにほかならない。

*3:だからこそ私たちは、ひととの対話のなかでありたい自分の姿のみを押しつけるようなひとたちが、虚栄心に彩られたLINEの文章が、散々にインターネット上でネタにされているのを見てきたのではないでしょうか(おじさん構文であったり、どしたん話聞こか構文であったり......)。

*4:ちなみに部屋の壁を至近距離で撮って彩度などをいじったもの。